学問(learning)の最近のブログ記事
あと、タイトルが非常にそそるこの論文。
http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis240/e_dis231.pdf
TVP approachがTime-Varying-Parameterという意味だと理解するまで3分くらいかかった。CAPMとかGMMとかOLSとかのレベルでTVPって流通しているのか?ぐぐってみたら、TVP-VARというabbreviationは割と普通らしい。
http://personal.strath.ac.uk/gary.koop/bb_lecture6_slides.pdf
http://www.imes.boj.or.jp/english/publication/edps/2009/09-E-13.pdf
ちょっと頑張れば読めるだろと思ったんだが、ダメだね。ベイズ統計学ちゃんと勉強しなかったし。MCMCくらいまで、もっと頑張ってやっときゃよかった。
数学も、もっときっちり学べばよかった。。。といいつつ、いま昔に戻っても、同じように計量経済学にはまり同じような時間のすごし方をして、同じような内容しか勉強しなかっただろうな。あの頃に戻りたい、と思ってみても、きっと同じ人生を過ごすに違いない。
- Efficient Market HypothesisをTime-varyingで計測することで、不毛な議論に決着をつけたい
- C-CAPMがなんでうまく行かないのか知りたい
- 日本人のリスク回避パラメーターを、自分の手で、ちゃんと推定したい
- GMMの問題点と、ポストGMMとしてどんな推定量が良いのかを知りたい
- Equity Premium Puzzleを解きたい
- ベイズでいろいろな理論を検証しまくりたい
- インフレのコストを、自分の手で、納得がいくまで計算したい
1.への僕なりの回答が、Mikio Ito先生と一緒にやった、これ。
2.は、修論で取り組んだ。
3.Akihiko Nodaさんと一緒にやって、ついこの前pubishされたこれ。(ちなみに、同じことだけど、どちらかというと僕はリスクパラメータとしてガンマをとらえているが、野田さんは、異時点間の代替弾力性としてとらえているのが、おもしろい。ま、同じことだけど。)
4.は、なんとなく試したみたCUEがけっこういい感じだった。これ、21世紀の計量経済学の勝ち組推定量かもしれない。
5.はいろいろ試して解けずあきらめた。
6.は、ベイジアンになったら、就職やばそうという合理的判断で、深入りやめた。
7.は、全然着手できなかった。アイディアはいろいろあったんだけど。
というか、ほかにも思いついては試してみて、で、ダメだったことが山のようにあると思うのだけど・・・思い出せない。うまくいかなかったことは忘れちゃうから。
まぁ、時間ってないよね。修士の2年でこれぜんぶやるの、無理。授業もあったし。しかも、いま、2年弱働いてみて、ほかにもいろいろと別の関心というか研究してみたいことというか、試してみたいことがある。
- 腰を据えて数学を基礎からやり直して、自分で理論を書いてみたい。自己満足理論じゃなくて、実証可能性を考慮に入れた理論を、自分で書いてみたい。
- 景気循環について、もうちょっと現実を直視しているような理論を考えたい
- 人間は、経済変数や金融変数に攪乱されるがゆえに、当人は合理的と思っていても、一見非合理的な行動をする、という前提で理論を書いてみたい
- market priceという抽象的概念が、現実ではどのように実現されているのかデータから逆算してみたい。(本当にあるのそんなもの?ない業界とある業界があるんじゃないの?)
- JALの新社長の稲盛さんも言うように「値決めは経営」。でも、値決めってどうやってやっているの?見積価格の決定メカニズムって、どういうメカニズムなの?それって、本当に市場価格に近づくの?
- 格差の原因が、生まれた家庭にどの程度依存しているのか実証分析したい。高所得の人間が、実は高所得をもたらしているのは、当人の能力や努力というより、いい家庭に生まれってことに依るところが大きい、という結果が出るのではないか?もしそういう実証分析結果が出たら、格差はよくないという規範的分析へと発展させたい。
まぁしかしあれだ。今年は法律を勉強するとかいってたが、経済学の研究やり始めたら、そんな時間ないな。平日は普通に働いているし。それなりに責任感じてるし。会計ももうちょっと知りたいし。読書もしたいし。スキーも行きたいし。有馬温泉も入りたいし。たまにはゆっくり旅にでも行きたいし。ときどき東京かえって仲間に会いたいし。そういえば今日ウィイレ2010を衝動買いしてきたところだし。やりたいことは無限。時間は有限。
http://www.gakuji.keio.ac.jp/academic/shingaku/kei-d.html
・・・と思ったら、今年の出願受付はもう終わっていたのであった。しかも3年間は在籍しないといけないし。授業料の負担がけっこう高い。入学金も入れて年間で836, 200円だって。高い。これ払ってまでやる価値があるにやあらむ。大学院まで私立で、おとーさんおかーさんすいませんでしたっm(_ _)m。奨学金ってとれるのかな。働いてるから、無理なのか?
確か国立は、博士号取得要件として、3年間在籍という縛りがなかったはず。入学して1週間で取れるとかいう話も聞いたことが・・・。本当ならそっちのほうがいいじゃん。うーん、関西で経済学の良い国立大学と言えば・・・
http://www.econ.osaka-u.ac.jp/admission/gdent-index.html
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/index.php?admissions%2Fgraduate
ダメだ。どっちも受付終了してる。もちろん、誰の指導を受けたいかということも重要なのだが。
単著でジャーナル載らないと取れないのかな?そこらへんもよく分からない。博論って3部構成だよね?publishされた共著2本のうち杉山貢献部分+unpublishedの修論でOKなのか?そうだとしても、博論の形に仕上げないといけないわけだよね。うーん・・・。修論をまともなジャーナルにどっか載っけたら、さすがに固いと思うけど。投稿するのも一苦労だよ。査読に死ぬほど時間かかるし。いずれにしても、しばらく土日を研究に費やさないといけないということですね。。。
TeXもインストールし直さないといけないし。Rとかの統計言語のリハビリもしないといけないし。英語・・・は大丈夫だろ。数学・・・はけっこう錆付いたっぽい、ちゃんとやらないと。
うーむ。やはりこうして冷静に考えてみると、博士号ゲットまでには、金と時間と労力がかかるな。もう少しいろいろ調べてみよう。どの道この4月からは無理って判明したし。
英語と数学が出来れば、いつでもアカデミズムに復帰できる。英語と数学はちゃんとやっといたほうがいいよね、と自戒をこめて。
Inflation Perceptions
What's happening, I suspect, is that sharp price rises in some things catch peoples' attention, while declines don't.インフレとデフレを、単純に物価変化率がプラスかマイナスか、という算数として、人間は認識できないのかな?って思う。
ところで、僕はインフレを知らない。まぁ、経済に興味を持ち始めた頃(大学入った頃、つまり2001年頃)、物価は上がっていなかった。僕はデフレしか知らない。だから、「お前インフレの怖さ知らないんだろう」と言われると、正直知りません。それでも、何の根拠あっていってるんだと言われてしまうような、僕の直感的な意見で言うと、デフレのほうがインフレよりやばいと思う。
例えば、最近テレビでよく労使交渉のニュースやってて、ベア見送り、定昇見送り、って話があるけど、デフレ下では、名目賃金を維持すること=賃上げ。すなわち、この不景気に、実質賃金ベースで見れば、ちゃんと賃金は上がっているわけだ。
ところが、これ、なかなか理解しにくい。何度いっても理解できない人もいると思う。そういう人のことを「こういうバカはほうっておこう」とするのか、「現実に理解できない人が多いのだから、それを考慮に入れないといけない」とするのか?経済学者は、どちらかというと、前者だと思う。でも、それって現実を向き合っていない態度じゃないか?
労使交渉の時にデフレが悪さをして、賃金水準を均衡より高めに設定してしまうことによる、資源配分の歪みというのは、無視できないと思う。
物価変動の本質的な問題はそのボラティリティだと僕は思う。ボラティリティがすごく小さければ、ほぼ問題ない。ただ、それはインフレの時のお話であって、デフレの時は、上にあるような問題が発生するので、やばいと思う。ただでさえ、人びとはいろいろな経済変数を実質変数化するときに攪乱するのに、デフレの時にはその攪乱の度合いが大きくなると思う。そしてそれが、ものすごく大きな資源配分の歪みをもたらすと思う。
このデフレのコストは十分大きいので、なんとしても退治しないといけないと思う。ただ、この主張を実証的に裏付けろと言われたら、まぁ、出来ません。僕の感覚としか言いようがないな。これでは政策提言としては赤点だな。でも、本心でそう思う。
(参考)
デフレデフレというが、実際物価ってどれくらい下がっているの、って考えるとき、当然、物価指数の上方バイアスの話も考えないといけない。上方バイアスについては、以下が分かりやすい。
物価の安定を巡る論点整理 by 白川方明 門間一夫
ミクロ経済学的な基礎を持つ理論的概念としての物価指数は、商品やサーここで物価変動を、ミクロ経済学を基礎に厳密に定義している。当然、ミクロ経済学で登場する変数なので実質変数を想定していると思うが、「名目変数と実質化する」作業が、デフレ時のほうが、インフレ時より困難なんじゃないかなぁ、と改めて思う。
ビスへの支出から得られる人々の効用をベースにして定義されるものであ
る。具体的に考えてみよう。代表的な消費者がある年に100万円の消費支出
をしたが、翌年は同じ効用(満足度)を得るのに110万円かかったと想定す
る。このケースは、人々にとって貨幣の価値が10%下落した状況にほかなら
ないため、「物価が10%上昇した」状況であると定義することができる。逆
に、同じ効用を維持する金額が90万円で済むようになった場合や、100万円
という同じ支出額から得られる効用が10%増大した場合は、いずれも「物価
は10%下落した」状況であると定義できる。このように、「同額の支出から
得られる効用が増大(減少)する」ことを、「物価が下落(上昇)する」と
いう。(p7)
以上、理論的概念に対応する物価指数を作成することに伴う現実的な難し
さについて述べてきた。ところで、新たな商品やサービスを生み出す企業努
力や、それらを取捨選択する消費者行動は、企業や消費者が合理的である限
り、消費者の効用を高める方向で作用するはずである。したがって、物価指
数が経済の実態を完全にはトレースしきれないということは、現実の物価指
数が効用の増加分を過小評価するバイアスを持つことを意味する。逆に言え
ば、現実の物価指数の上昇率には上方バイアスが存在することになる。(p12)
なんかすごい話題になってるBlanchard et alのIMFレポート。読んでみた。勝手に感想をば。
- 日本ではリフレ議論の文脈で取り上げられてることが多いみたいだが、それはもったいない。財政政策、金融政策、そして規制のあり方も含め、総合的に"Rethinking Macroeconomic Policy"している。
- とは言え、インタゲの文脈でやはり注目すべきは、なんといっても"Higher average inflation, and thus higher nominal interest rates to start with, would have made it possible to cut interest rates more, thereby probably reducing the drop in output and the deterioration of fiscal positions."(p8)だろう。でもさ、これって俺も大学生の時考えてたような単純な発想で、誰でも思いつくことじゃないか・・・!なんということだ。もちろん、インフレのコストとベネフィットの関係を慎重に考えないといけない的なことを書いた上で、"But the question remains whether these costs are outweighed by the potential benefits in terms of avoiding the zero interest rate bound."(p11)と書いているのだけどさ、結局Blanchard et alは本当のところ、どう思っているのだろう。それが見えない。実証分析もしてないし、ってゆか出来ない。
- 大恐慌の教訓から、70年代までは財政政策>金融政策と重視していたのが、ここ20年で逆転した、と。その理由として5個挙げているのだが、それがすごい頭の整理になった。(p5)
- Conclusionで、"The crisis was not triggered primarily by macroeconomic policy. But it has exposed flaws in the precrisis policy framework, forced policymakers to explore new policies during the crisis, and forces us to think about the architecture of postcrisis macroeconomic policy."(p16)と書いているけど、限られた情報の中で逐次的な対応を迫られる政策当局者、および、それを支える経済学者たちが使うべき統計学は、ネイマン・ピアソン流の古典的統計学ではなく、ベイズ統計学ではなかろうか?
最近の計量経済学の流れでは、漸近理論を最重視して、推定量に一致性と漸近効率性があればとりあえず良し、という感じで、finite sample property(小標本理論、small sample property)なんか知ったことかという風潮が強い。GMMだGELだといってみたところで、ごちゃごちゃと数式展開してくけど最後には結局、大数の法則と中心極限定理に帰着させて、ハイ証明終わり、ってなる。けっこうその計算自体が楽しかったりするんだけどね。逆行列が登場してきて、ごちゃごちゃしてた部分がけっこうすっきりしたりして。テトリスみたい。あ、テトリスというか、ぷよぷよに近いかも。
では、どれだけのサンプルサイズがあれば漸近理論(大標本理論、large sample theory)を適用してもいいのだろう。という問いになると、途端にみんなお茶を濁す。これはけっこう名の通った計量経済学者でも同じ。
この問いに答えるには、母集団と標本サイズの、相対的な関係を想像するしかないのだと思う。例えば時系列データを使うとしよう。一言に時系列データといっても、frequency(頻度。月次?四半期?半年?年間?)によって、考えるべき母集団は違うと思うのだけれど、まぁ、それはおいておこう。時系列データをつかって、推定量に一致性があります、って一体、何を言っているのだろう?-∞の過去から、+∞の未来まで、データが無限にとれるとしたとき、推定量が真のパラメータ値に確率収束するのです、ということだよね。でも、それって、やっぱり変だと感じる。だって、分析対象は生身の人間の行動なのであって、惑星の運行法則を調べようとしているわけじゃない。-∞の過去から、+∞の未来まで、惑星の運行法則が変わらないだろうな、というのは、納得がいく。でも、生身の人間の場合、行動はきっと変わるでしょう?僕自身、去年と今年で、行動は変わっていると思うし、それが成長ってものだと思う。そもそも我々は無限に生きない。「おまえ自分の論文でGMM推定してんじゃん」って突っ込まれたら、「代表的個人は永久に不滅で死なないのです」という苦しい言い訳しか思いつかない。でも、やっぱりこの言い訳、苦しいなぁ。「赤信号、みんなでわたれば怖くない」というのが正直な心境。
こざかしい言い方をすれば、人間の効用関数の形状は、変わる。変わらないと仮定しているほうが不自然。
あぁ、俺は何が言いたいんだろう?きっと、how large is largeを真剣に考えていない人が気軽に実証分析すると、本人に悪意があろうがなかろうがミスリーディングな分析結果を導いてしまう恐れがあるね、ってことかな。
あぁ、それと、いくら経済学が物理学や天文学などのマネをしようと実証科学の装いを見せたところで、上記にあるように、分析対象が惑星の運行法則ではなく、生身の人間のbehaviorである限り、無理があるよね、ってことかな。
http://www.accessecon.com/Pubs/EB/2010/Volume30/EB-10-V30-I1-P48.pdf
acceptされてからは、迅速だな。それまでは長かったけど。改めてfinal draftを読んでみたけど、嗚呼、至福の時間。この達成感と自己満足感を味わえる機会はそうは無い。
それでいろいろと思ったことをメモしてみる。
- Introductionがかなりいい。これはずいぶん矢野誠先生に赤入れされたおかげ。ありがとうございます。
- 普通のGMM(2-step GMMとか、Optimal GMMとか呼ばれているやつ)は、ダメだな。特にsmall sampleだとダメすぎる。標本サイズ二桁くらいでGMMはやっちゃいけないのかなって気がする。もちろん、HansenがGMMを思いついたのは天才としかいいようがないのだけど、実際に応用するのは問題が多すぎる。とは言え、後述するCUEもHansenが提案している推定量だから、Hansenすごすぎ。
- CUEがすごいな。ポストGMMとして流行る予感。実際、ポストGMMとしてもてはやされているGEL推定量の、特殊クラスとしてみんなが受け止め始めたら、どんどん使われるようになるかも。この辺、GEL専門家の大津先生(Yale)はどう思うかな。聞いたらいろいろ教えてくれそうだけど、俺の頭脳で理解できるだろうか。
- IES(異時点間の代替弾力性)の推定値が、すごい妥当。CRRA効用関数を使ってるんで、IESの逆数がRRA(相対的危険回避度)になるわけだけで、IESとして捉えてもRRAとして捉えてもコインの表裏の話だけど、とにかく、その値がすごい妥当。
- なんというか、手堅い論文だな。理論があって、こういう推定量つかって実証しました、そしたらこうなりましたら、ちゃんちゃん、っていう。なんというか、伝統的な経済学の論文の体裁って感じ。
Noda, A., and S. Sugiyama, 2010. "Measuring the Intertemporal Elasticity of Substitution in Japan," Economics Bulletin, forthcoming.
たいしたジャーナルじゃないけど、嬉しい。first draft書いたのって、あれ、もう2年も前か。あっという間だな。あの頃は、修論やって、効率的市場仮説の論文もリバイズして、で、この論文もやって、と、知的に非常に楽しかったな。GMMはしょぼすぎるから、CUEで推定しようぜっつって楽しんでるなんて、なかなかマニアックな青春だぜ。(普通の人は、意味不明っしょ)
いまの仕事けっこう楽しいんで、学問の道に戻る気はないけどね。book smartではなく、street smartを目指そうと、大きく方向転換した決断は、間違ってなかったと思う。自分はエコノメトリカにばんばん掲載できるレベルじゃないって知ってるし。
あぁ、二つも論文載ってしまうと、博士号ほしくなってきたわ。もってるからどうってわけじゃないけど、取れるものは取っておこうかなって気になってきた。
こいつを分析したいとする。記述統計で調理しようか?推測統計で調理しようか?なんとなくかっこよさそうだから、推測統計を使いたくなる。回帰分析でもしたくなる。あ、t値が有意だ。なるほど、こういう因果関係があったのか。
いやいや、この分析はいったい何をしているのだろう?目の前にあるデータは、社内で起こった全てのデータだ。全てのデータがあるのに、いったい推測統計を使うなんて、いったい背後にどんな母集団があると考えているのだろう?「母集団=いま使っているサンプル」なのだから、記述統計すればいいんじゃないか?
日本には都道府県が47しかないのに、都道府県データを使って回帰分析してt値が有意だといって喜んでいるのは、いったい何を分析しているのだろう?人口は1億3千万いるが、全データをとれない。だから、とりあえず3000人分くらいのデータをもってきて、推測統計を使う。これは分かる。というか、そんなときにために推測統計がある。
なんでもかんでも推測統計で調理しようとするのは間違っている。記述統計はsuper elementaryだが、(統計学が疎い人にとっては朗報なことに)それで十分なケースも多々ある。そういうケースで推測統計をつかってあーだこーだ分析するのは、いったいどういう母集団を想定しているのだろうと質問したくなる。手元にあるデータこそが母集団なのに、推測統計つかって「この分析は一致性を持つ」って、なんのギャグですかと思う。
下落幅は過去最大らしい。
http://markets.nikkei.co.jp/kokunai/hotnews.aspx?id=AS3S31008%2031072009
「日本経済がデフレに陥る懸念も強まっている。」とあるが、既にデフレに陥ってしまったと思う。
不確実性を扱うとき、利得と損失に対する経済主体の対応に非対称性があるといわれているが、インフレとデフレでも同じような非対称性があるのでは、と最近よく考える。例えば、労使交渉なんかを見ていてもそう思う。デフレになれば名目賃金を維持するだけで実質賃金をみれば賃上げをしていることに等しいが、労働組合はそんなことは考慮に入れない。結果、賃金は均衡賃金より高止まりする傾向を強くする。で、ナイーブな経済理論によれば、その結果失業率が高くなってしまう。
昔、東大の林文夫教授が、「日銀総裁人事をめぐってメモを書く」みたいなことを書いていた。(元記事はなくなった模様だが、ここなどを見ればまだ読める)。「民主党の仙谷氏は、名目金利と実質金利の区別ができていない、こんなとんでもない人が経済政策を担当するようでは,民主党には政権を任せられないと多くの人が思っただろう。」と書かれていて、その当時は、ごもっとも、と思ったのだが・・・。今思うと、民主党のそれなりの人ですら区別ができていないのだから、いわんや一般ピープルをや、と。でも経済学では、経済主体はみんなこの区別を明確に出来ると仮定しているので、結局、経済学って現実と向き合って分析する気がないんじゃないか、と受け取れる。
誰も実質経済変数なんか気にしてはいないのでは、ということ。そして、デフレになればなおさら名目変数を頭の中で実質化する作業が困難になるのでは、ということ。そしてこれが異時点間の資源配分を大きく歪ませてしまうのではないか、と。
さて、この論文は見事にリジェクトをくらいました。やはり甘くないですね。今思うとこれがacceptされたのは、本当に運が良かったとしかいいようがない。周りの話を聞いてみても、やはり、リジェクトをくらったという話のほうが圧倒的に多く、国内組が有名ジャーナルに載せるのは、本当に難しい。とはいえ海外組も簡単に載せられているわけではないが。
中身云々の前に、形式的なところだが、cochiranのwriting tipsは非常に参考になります。有名なんで既に知ってる方も多いかもしれませんが。知らなければ、とりあえずこれを読んで体裁を直すのをおすすめします・・・。
あとは、どのジャーナルを選ぶか。ジャーナル投稿戦略は重要。結局、論文というのは商品で、それをいかにうまく売り込めるか、という側面もあるので。優秀なセールスマンになる必要があるってこと。
そして、結局こういうことをアドバイスできるのは、優れた研究業績のある教授しかいないわけで。でもそういう人は少ないわけで。そういう人に認めさせるのも、一種の優秀さなわけで。つまりは優秀でないとアカデミックにやっていくのは難しい、という当たり前の結論が出てきてしまった。
よく考えたら、Economics Lettersに投稿したときも、"with editor"というstatusが7ヶ月くらい続いてイライラした記憶がある。やっとstatusが"under review"となったと思ったら、5ヶ月待たされたし。。。ということを考えたら、気長に待つしかないわけですが。
この、現実経済にキャッチアップするのが絶対に不可能な感じのノンビリしたアカデミックな雰囲気は懐かしかったりもする。
(参考)
アカデミックな世界のスピード感の無さは異常
けっこうためになった。現時点で、日本語で書かれた、今回の金融危機に関する、一番よい本だと思う。
投資銀行などでは、運用に成功したら多額の報酬がもらえるけど、失敗して多額の損失を出してもクビになるだけなので(結局サラリーマンでしかないので)、結果的にリスクを過剰にとってしまっていた、という非対称性があった、とか。今回の危機で、資本主義は終わった、とかいう議論があるけど、それは浅はかすぎる、とか、経済学者=市場に任せれば全てうまくいく人たち、という批判があるけど、それって的外れ、とか。あと、30年前のマクロ経済学しか知らない人が、ケインズ的政策を言ったりしてる、とか。「資本主義終わった」「傲慢強欲ウォール街のせい」みたいな感情的本が大量出版されている中、こういう冷静な議論が出来ているのは、すばらしいと思う。
でも、マクロ経済学がいまどうなっているのか、普通の人は知らないでしょ。それって、ちゃんとした経済学者が啓蒙をちゃんとしなかったことに大きな原因があると思うから、むしろ被害者だと思うけど。日本の経済学者の怠慢だと思う。一方で「財政政策すると、45度線って理論があって乗数効果があるんだ」と言っていたり、また一方では「財政政策したって、クランディウングアウトして民間投資を相殺するから、効果はないんだ」って書いてある。いったいどっち、と専門家以外が混乱しても全然不思議じゃない。そういう僕自身も、そんなに財政政策の有効性とかをめぐる議論は、学識が高いわけじゃないけど。(でも、ちょっとそういう話も知ってる範囲で書こうかな。その話は長くなるんで、根気がないと書けないんだが。)
あと、p242で、
池尾 実は私自身は、林=プレスコットと少し違う見方をしています。
とか書いているが、自分の主張があるならば、論文として国際的舞台で主張したらどうでしょう、って思う。日本語で書いた本で主張したって、世界を相手に聞いてもらえないでしょう。特に、hayashi prescottみたいな有名論文を相手にするならば、トップジャーナルで主張しないと、誰も相手にしないのでは。幸運にも林先生は日本語が出来るけど、プレスコット先生は、池尾先生がこんなところで何か言っているなんて、永久に知らずじまい。それでは、活発な議論は出来ない。国内レベルではなく、世界レベルでちゃんと学問的業績を出してほしい。(時短&RBCで日本のlost decadeを説明できる、なんて、そんな単純な説明はさすがに無理があるだろう、という気持ちは分かるが。。。)せっかく超一流経済学者が(それも二人も)、日本経済に興味を持って研究しているわけだから、それと議論するために同じ土俵で勝負してもらいたい(hayashiは日本有数の経済学者、prescottは2003年ノーベル受賞)。
帯に『「世界標準」の経済学講義。』と書いてあるが、世界レベルで研究活動をしていない人がそんな風に言っても、普通に考えれば説得力はない。ただ、僕が本書を読んでみた結果、「現時点で、日本語で書かれた、今回の金融危機に関する、一番よい本」というのが素直な感想。さすがに、この二人がトンデモということは絶対に無いのだが、せっかく高い学識を持っているのだから、世界的な学問的業績もきっちり出して、実力を証明していただきたい。
「経済学部で経済学を学んで、経済学的思考が身についた」と喜んだ事があるが、これも同じように変なことだよね、と気づいてしまった。
経済学では、合理的な経済主体を想定する。合理的とは、コストとベネフィットの相対的関係を比較して意思決定することを言う。経済学では、個別の主体がそうやって行動した結果として、経済があると考える。だから、「僕の人生のdiscipline(規律)は、経済学」とか、「経済学部で経済学を学んで、経済学的思考が身についた」というのは、そんなのは経済学によれば、人間であれば、by definition成り立っているはずのことなのである。つまり経済学によれば、「すべての人間の人生のdiscipline(規律)は、経済学」であり、「経済学部で経済学を学んでいなくても、生来、人間はみな経済学的思考が身についているはず」なのである。
「経済学的思考が身についた」って喜んでいるのって、なんて反経済学的な喜びだろう。
誰かこのジレンマから救ってくれ。
http://www.jstor.org/pss/1884848
伝え聞くところによれば、ご本人はこういうのをあまり自慢したがらなかったらしい。すごい。学者の世界って、学問的業績が決定的に重要なんで、本当に尊敬します。
学部生や多くの一般の人は知らないと思うけど、有名な経済学者(例えばメディアに露出してる、とか、何かの政府の審議委員やってる、とか)でも、学問的業績が実はほとんど無い、という人がいたりします。本当に不思議な存在で、僕だったら恥ずかしくてとてもそんな表舞台には立てないんですが。
どうやったら見分けられるか?と、たまに聞かれるので、目安を。
google scholar
ここに名前を入れたら、その人の学問的業績が出ます。どんなジャーナル(学術雑誌)に載せているかがまずとても重要。ジャーナルにも格付があって、例えば、以下とかを参照。
http://www.keele.ac.uk/depts/ec/cer/documents/EconJournals.xls
http://www.sceco.umontreal.ca/divers/jeea2003.pdf
計算のやり方とかによって、ランキングは若干変わる。それはしょうがないのですが、例えばトップは、AER(American Economic Review)かECONOMETRICAのどちらか、というのは、誰が聞いても納得のいく事実。理系で言えばScienceとかNatureに相当するトップ中のトップ。僕は残念ながらこのレベルではありませんでした。たぶん、一生かかってもこのレベルに論文は一本も載せられそうもないなー、という感覚が、自分で学者の世界に見切りをつけた一つの理由。
有名なあの人、どれくらい学問的業績があるんだろう?ってこうやってチェックしてみると、いろいろと分かっていいと思います。さすが有名なだけある、という立派な人もいれば、(以下略)。学問的業績が実は無い人の言うことなんか基本的に聞きたくないですからね。
(追記)
名前を入れるときは、英語(ローマ字)で。日本語で書いた論文は、ふつう、学問的業績に入らないので。だって、研究成果を日本人以外に知らせない、なんて言語道断でしょ。自分は海外の研究者が書いた英語論文を読んでそれを引用したりしているのに、自分は日本語で論文を書いて海外の研究者には読ませない。それってやっぱり研究者としてどうなんでしょう、って。ただし、歴史系などが専門の場合は、そもそも研究成果を発表する国際的雑誌がなかったりするので、それはちゃんと別として。
毒舌だが独特な言い回しが魅力で、読ませる。相当おもしろい。著者の主張にものすごく共感する。この分野で僕が読んだ本の中で、ひょっとして一番優れていたかもしれない。(この分野とは、経済・金融・統計学・計量経済学・データ分析・トレーディング・資産運用、とか、そんな感じ。)
タレブによれば、「成功しているトレーダーは、ほとんどの場合、運がいいだけのバカ」。「ほとんど」と彼が強調しているのは重要で、ひょっとして本当に賢いおかげで成功しているトレーダーもいるかもね。って。でも、「ほとんど」の場合、成功は偶然でしかないんだって。
それから、伝統的な経済学もちょいちょい槍玉にあげる。たとえばp232で、
経済学者は物理学者をうらやんでいるけれど、その物理学はもともと実証的科学だ。一方、経済学、とくにミクロ経済学や金融経済学は圧倒的に規範的である。規範的経済学は、美意識に欠ける宗教みたいだ。
けっこうキツイね。でも反論できない。実際、多くの場合、ミクロ経済学者は現実に興味がない。彼らの多くは、「実証的科学」なんか、興味ないでしょう。そのくせ、現実経済について偉そうに述べるから腹が立つ。現実経済のことだったら、僕のほうが絶対に詳しい。じゃぁ現実に興味が無いからといって、理論の世界で黙々と研究業績を出しているか?というと、国内の学者の場合、論文すら書かないから始末が悪い。研究業績という点で、僕未満の教授はたくさんいる。別に僕がすごいんじゃない。彼らが怠慢で無能なだけ。
じゃぁ、「実証的科学」のはずの計量経済学については著者はどう思っているかというと、p146では、
最初、まだほとんどなんにも(つまり今よりもさらに)わかっていなかったころ、もう死んでしまった人や引退した人のやっていた行動に基づいてできた時系列データが将来の予測に使えるのだろうかと悩んだことがある。そういうことについて私よりもずっとよくわかっている計量経済学者は、そんな疑問は持っていなかった。(中略)今では私は、たぶん計量経済学のほとんどは役に立たないのだろうと思っている。
これは時系列の場合だけど。でも、クロスセクションとかパネルデータを使うにしても、ランダム性がどれくらい確保されているのかがいつまでも不明である以上、なんだかなぁ。
マスコミの無知についても糾弾している。彼らは不勉強で、専門家の意見を正しく理解できないんだって。
ここまで面白い本は、久々。最高の知的刺激を受けた。
Received 15 December 2007;アカデミックな世界のスピード感の無さは異常。revised 25 January 2009;accepted 27 January 2009.Available online 3 February 2009.
原論文では、1955.1-2006.2のデータしか使っていない。ので、2008.12まで使って追試してみた。新規情報は、たった3年弱。で、この3年弱の間で市場の効率性はどう変わったかというと、一気にinefficientな方向に向かったということが分かった。
百聞は一見にしかず、look at the following figure.
原論文のFigure2と比較すると、新規追加情報に対してカルマンスムーズングがどう反応していているのかを観察できて、面白い。ちなみに、カルマンスムージングでどれくらいの情報を実際の計算で使っているのかは、discussion paper versionでは言及したが、Economics Lettersの投稿規定(2000words以内)に引っかかったため、投稿時に、この点はカットした。あ、原論文、accepted versionをアップロードしといた。
このエントリーを書いてみておもったが、実証系の論文、どうせpublishされるまでにdataがoutdatedになるんだから、publishされるときに、最新のデータで追試した結果をブログなりで報告する義務を課してもいいと思う。それくらいしないと、経済学者は永遠に現実経済に追いつけないでしょ。
社会で普通に働きもしなければ、研究業績も出さない、そのくせ偉そうなことを言う学者って、いったい何なんですかね。僕なんて、社会で普通に働いているのに、研究業績も出したというのに。
というわけで、ささやかながら、経済学界に貢献することが出来ました。
Ito, M., and S. Sugiyama, 2009. "Measuring the Degree of Time Varying Market Inefficiency," Economics Letters, forthcoming.
まぁ、またいろいろと思ったことを追々書いてみます。論文の最終ヴァージョンも、そのうちアップロードします。
Market fficicencyの論文は、2007年12月に初投稿し、査読結果が返ってきたのが2008年11月。結果はrevise要求だったので、reviseして2008年12月に再投稿。また1年くらい待たされるんだろうか?
C-CAPMの論文は、2008年の夏くらいに初投稿して、こっちは割りとはやく査読結果がきて、やっぱりrevise要求がきたので再投稿したのが2008年12月。こっちはまだ早そうだけど、それでも数ヶ月は待たされるんだろうか?(ちなみに、こっちは、共同研究者のNodaさんにおんぶにだっこ状態です、thanks....)
これらの論文がジャーナルに載って他の経済学者の目に触れる頃には、これら論文で使っているデータは相当古いものになっているわけ。スピード感、無さ過ぎ。こんなんでは、経済学者は現実経済には一生追いつけない。ジャーナルに載っている最新の論文は、数年前のデータまでしか使っていないんだから。社会人になってから、大学院にいた頃より、はるかに現実経済に目を向けるようになった。
大学院時代にやっていた論文を書くって作業は、たっぷり時間をつかって100点狙いにいく感じだったけど、社会人になって仕事をするってのは、短時間で80点の解答を作成する感じ。100点狙っていたら、日々の変動から置いていかれてしまう。基本的なmindを根本的に変えないと、いかんなー、とか思う。どうも、時間をたっぷり使って100点狙いにいく態度が染み付いている模様。
さて、ここで研究業績とは何のことを指すのだろう?それは、学術専門誌に投稿し、査読に合格し、そこに載ったことを言う。学術専門誌と一口にいってもたくさんある。載った学術専門誌のレベルが高ければ高いほど、研究業績も高くなる。また、載せた論文がたくさんreferされればされるほど、研究業績も高くなる。なぜならば、たくさんの人に読まれ、他の多くの研究を触発したことを意味し、学術的な価値が高いからだ。ここで、世界中の研究者に読んでもらうことが重要になるので、論文は英語で書かないと話にならない。日本語で論文を書く必要があるのは、文科省の助成金目当ての時くらいのものだろう。
これ以外のほとんどは研究業績と言うにふさわしくない。例えばworking paper, discussion paperと呼ばれる論文を書くのは、研究業績にはカウントされない。だって、査読がないのだから、いくらでも書けてしまう。さらに、査読がないのだから、誤りがあるかもしれない。working paper, discussion paperを書く利点は、印刷費用などを大学側でもってくれるということと、論文をパクられるリスクを減らせる、ということである。
blogを書くことも、研究業績には入らない。やはり査読が無いのだから、間違っている可能性もある。blogの場合、性質が悪いのは、間違ったことを書いて、専門知識がない素人を扇動してまうという負の面があること(blog主に悪意があろうがなかろうが)。本当に研究能力があるのならば、敷居の高い学術専門誌に載せて、それを証明すればいい。そうしないとすれば、能力がないからだろう。しかし十分に高い研究業績を出した人が書くblogならば、ある程度の信頼を持って読むことが出来る。それは例えばmankiwとか。でも、mankiw blogにも査読がないわけだから、間違うことはあり得る。
では本は?これは、本にもよるが、あんまり研究業績にカウントするべきではないかもしれない。例えば、HayashiのEconomcetricsくらいのベストセラーになると、十分研究業績としてカウントすべきだろうけど、Hayashiはそもそも十分にたくさん、海外の学術専門誌に載せている。
英語の学術専門誌が査読があるからといっても、間違うことはあり得る。でも、査読が無いworking paper, discussion paper, blogなどだと、間違いが含まれている確率はもっと高いのだから、反論にはならない。
現状のシステム(英語の学術専門誌に投稿し、査読し、合格なら載る、というシステム)にも悪い面がある。一つは、投稿してから載るまでが1年2年は当たり前で、タイムラグが長すぎる、ということ。査読や編集作業に時間がかかるのだ。二つ目に、査読の合否が、レフェリーの主観に大きく依存してしまう、という点。だけど、査読無しで間違いだらけの低質研究がばらまかれるリスクを考慮したら、仕方がないと思う。レフェリーを100人とかにすれば少しは客観的になるかもしれないが、そんなことは実行不可能だし。
最近はwebsiteに論文をuploadするだけで世界中の人に公開できるようになった。また、blogだって英語で書けば世界中の人に読んでもらえる。こっちのほうがタイムラグもないし、より良いじゃないか、今までのやり方はダメだ、という意見もあるに違いない。
だけど、いま我々が手にしている教科書を見てみる。すると、英語の査読つき学術専門誌に載っている研究業績をreferしまくっているのが分かる。それらをベースに、教科書が作られている。「あなたが教科書で学ぶその知識は、どこから来ているの?」と言いたい。それは現状のシステムが積み上げてきた研究業績なのだ。
やり方を変えたいのならば、より良いやり方を提案するべきだ。「より良い」とは、良い研究成果がもっとバンバン出るかどうか、で判断するべきだ。blogや、discussion paper, working paperをwebsiteで公開するだけ、というやり方では、低質な研究が世にばらまかれるだけだと思う。著者の意図がどうかは別にして、専門知識の無い一般大衆を扇動しかねない。
結局、blogや、discussion paper, working paperをwebsiteで公開するだけ、というやり方は、今までのやり方よりいい方法とはいえないと思う。自分のwebsiteで論文を載せておいて、かつ同時に査読つき学術専門雑誌に投稿し、査読の合格を待つ、というスタイルが一番いいと思う。なかなか合格がでなければ、いつまでたってもdiscussion paperのままでwebsiteに晒され続けるだけで、それはそれで「この論文は値打ちが低いです」というシグナルを効果的に発することになると思う。
ところが確率に関して言うと、途端に人間の直感は信用できなくなる。その良い例が、モンティ・ホール・ジレンマ。wikiから引用する。
- プレイヤーは、3つのドアを見せられる。ドアの1つの後ろにはプレイヤーが獲得できる景品があり、一方、他の2つのドアにはヤギ(景品がなく、ハズレであることを意味している)が入っている。ショーのホストは、それぞれのドアの後ろに何があるか知っているのに対し、プレイヤーはドアの後ろの様子はもちろん知らない。
- プレイヤーが第1の選択をした後、ホストのモンティは他の2つのドアのうち1つを開け、ヤギを見せる。そしてホストはプレイヤーに、初めの選択のままでよいか、もう1つの閉じているドアに変更するか、どちらかの選択権を提供する。プレイヤーは、選択を変更すべきだろうか?
ドアを変更したって、確率は変わらないっしょ!って普通は思うでしょう?それが普通の人間の直感。でも、その直感、間違っている。
一番分かりやすい解説は、おそらくこれだろう。
http://ishi.blog2.fc2.com/blog-entry-182.html
カード(ドア)を10枚にして考えたら、分かりやすい。「自分が選ばなかった9枚のうち、はずれの8枚はどれか」を司会者が教えてくれているのがポイント。いきなり二択だと確率は50%だが、『こういう設定で、こういう経緯で、(司会者によって)こういう情報がアップデートされた』という情報をあなたがもっているので、一見二択だが、確率は10%vs90%になるのである。
更新情報を有効活用すると、意思決定は改善できるという、当然のことでしかないのだが。確率に関する人間の直感の不正確さに付け込んでいる人は存在するに違いない。相当頭がよくないと出来ない芸だが。
cf)彼は、専門論文を大量に書くだけでなく、一般向けの本もけっこう書いている。どれもおすすめ。
『良い経済学 悪い経済学』
"The Great Unravelling"
''The Age of Diminished Expectations''
世界の梶井厚志が一般向けに、ゲーム理論について説明してくれている。久しぶりに経済学者の書いた本を読んだ気がする。
前半(第一部)はまるで(学部レベルの)ゲーム理論の講義を受けているみたいな感じだった。ゲーム理論をまったく知らない人が電車の中などで気軽に読み進められる感じではないのでは。後半(第二部)はもうちょっとすらすら読める内容だった。現実を分析する応用例がたくさん載っており、一般の方はこちらのほうが楽しめるのでは。
本書を読んで、ゲーム理論について前から自分が感じていることを再確認した。簡単に言えば、「世の中の人は、ゲーム理論が想定するほど頭がよくない」ということ。例えばp144では、女性が男性を褒めるのには戦略的行動なのに、このことを戦略的に考えることができる男性が多くはない、というような話をしたうえで、
なぜ女性がそんなことを言うのかを戦略的に考えることのできる男性がもう少し多ければ、世の中はずっと違ったものになっていたはずである。と書いている。ゲーム理論は「そのずっと違ったもにになっていたはず」の状況を分析しているのであるから、現実を分析できないことの告白にしか聞こえなかった。あるいは、p188では、2002年のワールドカップでチケットが大量に売れ残ったことについても、
チケット売れ残りで話題になったサッカーのワールドカップの試合入場券も、関係者に戦略的思考が少しでもあれば価格をしだいに下げながら販売されていたであろう。と書いているが、男女関係やチケット販売だけではなく、ほかの様々なケースでも、それほど私たちは戦略的思考が出来ているとは言いがたいと思う。そもそもゲーム理論が想定するほど人間は戦略的思考レベルが高くはないということである。プレーヤーは戦略的思考が出来ると仮定して分析しているわけだから、ゲーム理論では現実を分析できないケースのほうが圧倒的に多いと思う。
けっきょく頭の体操でしかないのかな、という印象を持ってしまった。理論を現実に近づけるのではなく、現実を理論に近づけるべきだ、というあきれた発想はさずがにゲーム理論家の頭にはないと思うが、現状では理論を現実に近づけるという方向に行くよりは、どうやったらもっと面白い知的体操ができるか、ということをばかり考えているような印象を受ける。まぁ、実際に頭の体操って面白いから気持ちは分かるんだけどね。特にゲーム理論やってる人って、経済学者の中でも頭の回転が速い人がやっているから、なおさら頭をもっと体操したくなるんだろうな。
けっこうネガティブなことを書いてしまったが、本書は一流の経済学者が書いた良書であることは間違いない。「経済学ではこう考える」ということが分かるので、経済学の啓蒙書としてお奨めできる。
(参考)
経済学の啓蒙書としては、下記もお奨めです。こっちは現実のデータをちゃんと分析(計量経済分析)するとこうなってるよ、ということを書いています。
『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』
ビジネスの世界などで,よく「結論から考える,仮説思考」が重要と言われる.やみくもに突き進むのではなく,最初から「おとしどころ」を決めておいて,物事を進めるということである.突き進めて行くうちに情報が増え,最初は分からなかったことがだんだん分かるようになっていき,「おとしどころ」は若干修正される.とは言え,Aという「おとしどころ」を最初に決めておいたとしても,せいぜいA´に修正される程度であって,普通,いきなりZとかには修正されない.
つまり,「(柔軟に修正できる)結論ありき」で物事を進めていくことになる.では,最初にほとんど情報を持たない状態(これを「初期状態」と呼ぼう)で,どうやってこの「結論=おとしどころ」を決めるのか,というと,これはその人の過去の経験や根本的な価値観や勘といったところに依るのだと思う.これらの要素は「主観的判断」であり,通常,数値化しにくい.
さて,計量経済学に話を戻す.「計量経済学とは,統計的手法を用いて経済理論を評価する学問」という定義に従った場合,データを統計解析して「この経済理論はOK」とか「この経済理論はNG」とかいう結論を導きたいわけである.この検証作業で適用される統計的手続きはかなり高度に発達した科学的手法であって,一見,その結果導かれる結論は,かなり真理に近く思える.
...本当か?上記ビジネスの話と照らし合わせて考える.ビジネス上の意思決定だけに限らず,誰もがなんらかの「主観的判断」を下して意思決定を行っている.計量経済者もその例外ではない気がする.例えば,経済理論Aと経済理論BがあってAとBのどちらか正しいか,計量経済学で白黒つけたい,という状況を考えよう.仮にAという理論が支持されたと主張する論文があったとしよう.ところが経済学の世界だと,一方でBという理論が支持されたと主張する論文も存在していたりする.これはなぜか?計量経済学は高度に洗練された統計的手法のはずなのに,なんでこんなことが起こる?
計量経済学をある程度学ぶと,実はかなりいくらでも都合の良い結果を計量分析で導くことが出来る,ということがわかってくる.経済理論Aこそ正しい,という「主観的判断」を持っている計量経済学者がいたとしたら,その人は,意識的か無意識的か知らないが,とにかくこの「主観的判断」の影響を受けてしまう.その結果として,「経済理論Aこそ正しい」という論文を書いてしまう.書いてしまう,というか,書けてしまう.ここが計量経済学の問題.他方,経済理論Bこそ正しい,という「主観的判断」を持っている(ry
さて,ここまで書いたらジョークを一つ.
「計量経済学とは,自分が正しいと思う考え方をサポートするための道具」
ちょっと過激なジョークだけど,ある程度計量経済学をやった人なら,笑えるはず(笑えないw?).こういうジョークを思いつく時点で,現状の計量経済学には大きな問題があると僕は思う.真理の追求を掲げる現在の古典的計量経済学は,ぜんぜん真理に近づいていないんじゃないか,という危惧すら覚える.(でも,科学なんてみんなそんなもんかね...?)ベイジアンはその点,気楽だと思う.何せベイジアンは,「主観的判断を数値化して,事前分布として明確に計量経済分析に反映させます」という立場をとっているわけだから.
まだまだ計量経済学についての思うところはあるけど,今日はこの辺で.次は,「経済状態は不変」という計量経済学者の想定のおかしさについて触れよう(4月以降時間とれるかわからないけど).
http://www.coe-econbus.keio.ac.jp/cgi-bin/newslist.cgi?page=koubo
僕は修士論文ではアメリカにおけるC-CAPMの妥当性についてGMM推定しまくっていたのですが,たまたま商学研究科の博士課程のNoda Akihikoさんが,「日本における異時点間の代替弾力性を推定して,その推定値を使ってシミュレーション分析して政策評価をしたい」という話をしていて,「そんじゃ,僕が大学院を去る前に最後に記念がてら,共同論文でも書きますか」という話になったのが,昨年12月.で,本当に数ヶ月で代替弾力性を推定しまくって,卒業前になんとかdiscussion paper作成までこぎつけました.試行錯誤の末,かなり良い推定値を得ることが出来ました.Nodaさんがかなりがんばってくれましたし.おかげで,12月と1月という修士論文の最後の仕上げの期間は,けっこう大変でしたが.
というわけで,修士課程にいる2年間で,
1)「市場効率性は時変する」ことを明らかにした"Measuring the Degree of Time Varying Market Inefficiency" (with Mikio Ito)
2)「アメリカでC-CAPMがうまくいかないのは,計量が悪いんじゃなくって理論が悪い」ことを整理した"Consumption CAPM in U.S." (written as my master's thesis)
3)「日本で,代替の弾力性に関しては,カリブレーションとかするときに使われている値に近い推定値を得た」"Measuring the Intertemporal Elasticity of Substitution in Japan" (with Akihiko Noda)
という三つ論文を書いたことになります.大満足.1)はいま某ジャーナルの査読中です,2)の修士論文については,まぁ博士に行くならばもっと気合を入れて加筆修正をしてからどこかに投稿しますが,修士で終えるので,このまま大学図書館に収容されて終わりかな.あ,これはdiscussion paper化されておらず,盗作されたくないので,ここでは公開しないことにします.3)の論文は,共著者のNodaさんがそのうち某ジャーナルに投稿すると言っていました.
それにしても,博士課程に行く人はこれからは今まで以上にたくさん論文を書かないといけないので大変だと思います.
記念に内容をメモ.S先生が主査,M先生とI先生が副査で,まず最初に「修論でやったことを簡単に説明してください」ということなので,簡単に説明する.といっても,内容を先生方は3人とも大体知っていらっしゃるので,本当に簡単な説明.その後,適宜質疑応答.といっても,先生方とよくコミュニケーションをとってご指導をうけてきたつもりなので,あまり厳しいツッコミはなかった.
修論ではなかなか良い実証分析の結果が得られなかったので,「現実はやっぱり複雑ですね」と最後にこぼしたら,一同爆笑.そりゃそうだ.そんなことみんな分かってる上で試行錯誤して研究しているわけで.経済学者も大変だ.
まぁ,今まで受けた面接の中で一番和やかな雰囲気でした.とにかく,ホッとしました.
うちの大学出身で世界レベルの研究者が生まれるとは信じられん。断トツとはこういうことを言うのか。こんくらいのレベルになるときっと楽しいんだろうなー。でもYaleのプレッシャーはすさまじいに違いない。負けずに頑張って欲しい。
これ、良書。確率論、統計学などの一般向け啓蒙書といった感じ。この分野にあまり馴染みのない人が最初に読む一冊として適している。「大学で統計学勉強させられたけど、あれってなんの役に立つの」って人にもおすすめ。
目次数式やグラフもちょっとだけ登場するけど、基本的に文章のみで確率論・統計学を説明しようとしている。確率には主観的な捉え方と客観的な捉え方の二つがあるという哲学的な話から、サイコロを振って円周率を推定する方法(モンテカルロ法)のような知的におもしろい話も紹介されている。さらにデータを注意深く見る事で、おもわず「へぇ」と言ってしまいそうなトリビアも出てくる。(たとえばスポーツ選手は3月生まれが少ないという発見や、誕生月の一ヶ月前より一ヵ月後のほうが死亡する割合が多いという事実が、人間はおめでたいイベントまで気力で生きながらえることができることを示唆している、など。)
1 世界は不確実性に満ちている(ツキに法則ってあるの?
確率法則ってなに?
確率だって使いよう)
2 データの眺め方ひとつで世界は変わる(統計も見方ひとつでとっても面白い
標準偏差で統計の極意をつかむ
確率の日常感覚はゆがんでいる)
3 確率と意思決定(ビジネスに役立つベイズ推定
人は、観測できない世界を見落とす
真似することには合理性がある)
不確実性下における選択の正しさとは何か
スパムフィルターなんかで使われるなど、最近ビジネスでも重宝されているベイズ推定についても触れている。ベイズ統計学は古典的統計学と根本的に考え方が違うのだが、本書の解説は非常に分かりやすい。というか、数式をほとんどつかわずにこれだけ簡潔にベイズについて説明できているのは、素晴らしい。
(補足)
著者の小島寛之先生は、数学科出身の数理経済学者らしく、経済学にも話題がすこし振られている(参照)。
(補足2)
終章「不確実性下における選択の正しさとは何か」はたった数ページだけど、読み応えがあった。不確実性における「合理的な選択」が必ずしも「正しい選択」とは限らないよ、というお話。ここで「合理的」とは期待利得最大化という意味で、「正しい」の定義は、曖昧にされているのだが、だからこそ、読者それぞれの考える「正しさ」とは何ですか?と問われているような印象を受けた。
I love this book. ここ数年で読んだ本の中で、Top5には入る。
僕の頭の中に「これから世界はこう変わるだろう」というあるイメージがずっとあって、いつかブログで文章にしようと思っていたんだけど、そのイメージがそっくりそのまま本書で文章化されていました、という印象。「どうして著者は、俺が考えていることが分かるの?」という感じ。笑
で、内容。世の中には、いろいろな専門家がいて、彼らは自分の経験や直感などに基づいた、「専門家の意見」なるものを大衆に披露したりする。例えば、「野球のスカウト」や「ワインのプロ」といった専門家などだ。彼らは、自分の目や舌などで将来のドル箱スターや化け物ワインを発掘(予測)するのが仕事なわけだ。ところが、回帰分析に基づいた予測のほうが、こういう専門家よりも予測精度が高いという事実が明らかになってしまう。
回帰分析とは統計学の手法の一つで(そして計量経済学の中心的な手法でもある)、たとえばワインの例でいえば、「気温が何度くらいで、降水量がどれくらいだったか」といった条件のもとで、「どういう値段のワインが出来上がるか」という、因果関係を明らかにしてくれる。データを使って回帰分析する分析者は、ワインのことなどよく知らない素人なのに、この素人による回帰分析結果のほうが、「専門家」よりも予測精度が高いというのだ・・・!
従って、本書に登場する対立構図は、「回帰分析者 vs 専門家」ということになる。本書では繰り返し、「回帰分析者」の優位が説かれるが、だからといって、「専門家」が職を失うことはない、と著者が主張している点がおもしろい。ちょっとテクニカルな言葉を使うと、「回帰分析」を行うには、どの説明変数を入れるべきか、ということを含め、どんなモデルを想定するのか、ということを考えなくてはならない。「専門家」の今後の役割は、この「どの説明変数を入れるべきか」を考えることにシフトしていくだろう、というのが、著者の予想。さらに、「専門家」は職を失わないが、社会的地位や権威や給料は低下するだろう、とも述べている(「専門家」には、医者も含まれる!)。禿同。
そして僕の予想では、著者の予想は経済学の世界でも例外ではないだろう、と思う。つまり、経済学者という「専門家」も、「回帰分析に入れるべき変数を指定する」のが仕事になっていくだろう、ということ。「計測なき理論」をやっている理論経済学者は減り、「理論なき計測」だとしても現実経済をよくするような実証研究が出来る計量経済学者が重宝されるだろうな、ということ。
Freakonomics Intl Pb: A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything (邦訳は『ヤバイ経済学』)を楽しめた人は、きっと本書も楽しめる。Levittの『ヤバイ経済学』や本書などを読むと、経済学も少しは現実経済に目を向けるようになっていくのかな、と好印象を持った。いい加減、理論偏重の経済学者には数学のToy modelで遊ぶのは卒業してほしい。 How many toy models have you guys made so far? Enough! Stop it, please!
(補足)
これからは、もっともっと個人のデータが蓄積されていくので、ミクロ計量経済学がもっと発展すると思う。その結果、多くのミクロ経済理論が棄却されまくって理論家の考える理論のほとんどが妄想でしかない、ってことが明らかになる時代がすぐそこまで来ていると思う。
(補足2)
統計手法は、「回帰分析」だけではないが、「回帰分析」が一番人気のある分析方法なので、このエントリーでは単純化するために、「回帰分析者」ということばをつかった。実際には、膨大な統計データを分析する人のことを、原著では "Super Crunchers"と呼び、邦訳では『絶対計算者』と呼んでいる。本書でも、回帰分析のほかに、「無作為抽出法」という統計学の手法が紹介されている。
(補足3)
誤解をおそれずに大胆な言い方をすれば、計量経済学≒統計学≒多変量解析≒データマイニング≒データ解析と考えてもらって構わない。
(補足4)
訳者が山形浩生さんということで、安心して邦訳を読みました。原著を読むと読書スピードが1/5くらいになるので。笑
(補足5)
経済学部の学生が本書を読めば、いますぐ計量経済学の勉強を開始したくなるはず。計量経済学がいかに実世界で役立つか、ということを認識させられた。僕は計量経済学を専攻して、本当に良かった。
中小支援へ政府が4月に新融資・増資扱いの劣後ローン
中小企業を巡る情報が最近目にとまるようになった.中小企業が経済全体に及ぼす影響ってかなり大きいと思うんだけど,いままでこういうこと勉強してこなかった....「中小企業論」みたいな講義でもとっときゃよかったかな.
「後継者不在の現状が日本経済に及ぼす影響」とか,「成功する後継者と失敗する後継者の決定要因」みたいな論文って,きっと探せばあると思うんだが.卒業までの残り時間で,少しこういうことを調べてみようと思います.
どんな現象にも系統的原因と,非系統的原因があると思うのだが,「何が系統的原因か?」という意識を持つことが重要なのではないか,と.せっかく計量経済学や統計学などを学んだので,知識をいかせるものならいかせたし.
当初意気込んでいたほど,いい結果は得られなかったんですが,それなりに意味のある研究だったと思います.楽しかった~.
Ogaki先生のジャーナル投稿戦略に関するアドバイスを考慮して,(僕にとっては)少し高めのジャーナルに投げてみました.まぁ,あんまり期待しないで審査の結果を待ってみよう.
院に入ったときに,修士課程にいるうちに業績を一つ出すことを目標にがんばろうと思った.最初は,どこでもいいから学術専門誌に載ればすごいと勝手に思っていたが,その後,学術専門誌にもいろいろランキングがあることを知って,少し高めの海外ジャーナルを目指すことにしました.というか,最近では大学の紀要の雑誌みたいなやつは,業績としてみなされないらしい.
修士のうちに業績に結びつけるところまではいきませんでしたが,すくなくとも学会報告とジャーナル投稿までやれて良かった.就職するから,完全に趣味でまったくプレッシャーを感じずに自由にこういうことが出来ている気がする.博士いく人は,「業績を出さないといけない」というプレッシャーがあるから,僕みたくのんびり出来ずに大変に違いない.実際,僕の同級生でこんど博士にあがる人で,すでに某海外ジャーナルに二回も投稿している人もいる.
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/rep100j/pdf/rep100j.pdf
引用回数が上位の重要論文のうち,日本人が書いた論文が何パーセントあるのかが明らかにされている.46ページの「図表31 コアペーパ全体における日本論文の比率」に,分野ごとの調査結果があるので,詳しく気になる人はそちらを.
さて,経済学の場合,何パーセントくらいだろう?日本の経済学のレベルが低いとは言え,中には世界的業績のある先生もいらっしゃるし,どれくらいかな~と思ってみたら...
答えは,0%です.ひどすぎる.
学者の仕事は教育と研究なのだが,この結果を見る限り,日本の経済学者は仕事の半分をまったくやっていない事になる.なんという恥.
結局,イチローとか松坂みたいな一流のプロ野球選手がメジャーリーグに行くのと同じで,国内のよく出来る院生はより刺激を求めてみんなアメリカのトップスクールにいくことに.結果,国内リーグはさらにレベルが下がる.
今年も福留,黒田あたりがメジャーに行くみたいだし.藤川球児や上原もいつメジャー行くかわからんし.
散々オイラー方程式をGMM推定しまくったが,なかなかうまくいかないってことを痛感した.でも失敗の原因をだいぶ深くさぐったので,そこに論文の価値があると主張しよう.
まぁ,けっきょくこの程度の修論しか書けなかったってことは,博士にあがってもどうせ将来はなかったかな,という感想を持っている.自己評価が下方バイアスを持っているような気もするが,どちらかというと僕はむかしから自信家なので,このくらい悲観的でちょうどよいんだろう.
研究者は論文を書くとき,読者が自分とまったく同じ分析結果を再現するのに必要十分な情報は全て,論文で記述する義務があります.こういう情報が欠落した論文を書いた場合,筆者は猛省するべきです.僕は疑り深いので,「都合の良い結果だけ探してきて論文で報告しているんじゃないかな?」と思ってしまいます.そう読者に思われたら損なので,やはりちゃんと誠実に情報を書くべきです.
ところが,経済学の実証分析では,そういう情報が欠落していることが多々あります.非常に細かい話ですが,たとえばOLSでWhite修正した,といっても,White修正にはいくつかのバージョンがあります.ほんとうに細かい話ですが,どのバージョンをつかったのか明記しないといけません.メンドーだと思うかもしれませんが,書かないと読者が完璧に再現できないわけです.
また,シミュレーションや数値計算など,PCの性能などに依存する場合は,使った計量ソフトウェアとそのバージョンも明記するべきです.これをやらない人が残念ながらかなり多いです.Ogaki先生の話だと,同じソフトウェアでも,バージョンが変わると収束先が変わってしまったりすることがありえるそうです.細かく言えば,つかったPC環境も報告するべきなのかもしれませんね(Window XPでやった,とか).
僕が人から聞いた話だと,非線形GMMの推定をやるとき(この場合,数値計算が必要),TSP, STATA, LIMDEPは全て違う推定結果を返すそうです.さらに,EVIEWSだと,そもそもなぜか推定ができないらしいです.LIMDEPの計算結果がおかしいっぽい,というのは,僕の指導教授も言っていましたから,仮にLIMDEPが間違っているとしても,TSPとSTATAで推定結果が異なっているので,やっぱり計量ソフトウェアは信頼できません.高い価格を払っているんだから,ちゃんと作れ,とかなり怒りを覚えます(これらのソフトウェアは,だいたい1ライセンスで10万くらいするものです).
また,Ogaki先生に聞いたところ,ジャーナルに投稿したときレフェリーは,まず実証分析の結果の再現をしようとしないそうです.
こういう話を聞いて以来,どうも全ての実証分析がうさんくさく見えるようになってしまった・・・.みんな,ちゃんと自分のやった結果に責任もって,再現性があるような論文を目指しましょう.こんなんだから,計量経済学なんか信用ならん,って理論の先生に言われちゃうんだよな~.
再現性の点では,僕は自分の論文ではちゃんとやっているつもりです.全ての実証分析は,自分でプログラムを書いてやっているから,分析の中身がブラックボックスになっていない.というわけで,やっぱり,若い人はがんばってMatlab,Gauss,R,Oxあたりを覚えて,自分でしっかり分析できる力を養うべきだと思います.
一流の経済学者とは,世界的に読まれる優れた研究論文が書ける人のことです.この点,世間での「一流の経済学者」のイメージは,間違っているかもしれません.この間違いについては,また別エントリーで書いてみようかと思います.AER, JPE, ECONOMETRICAという三つの雑誌が経済学におけるトップ3のジャーナルなんですが(自然科学の分野における,NatureとかScienceみたいなものです),Ogaki先生はなんと三つを全て制覇している・・・!
今日の内容は,(1)ジャーナルの投稿戦略について, (2)GMMの理論と応用例,の二つでした.GMMについては,たまたま自分の修士論文がGMMについてのものだったので,聞きたいことを質問したところ,良いコメントをいただけました.今日は収穫の多い日だった.でも修士論文の改訂でやることが増えた.
ところで,あんまりみんな質問しないのね.せっかくのチャンスなのに.うちの大学はミクロ計量やってる人が多いから,今日のところ詳しい人はいなかっただけなのかな.きっとそうだ.
論文をいま三つ抱えていて,ちょっと大変です...卒業前にやれるだけやって,できれば「研究業績のある一般人」にでもなってやろうかと.
ついに出ました,ベイズ統計学の入門書!
文章が多め,数式を少なめにして,非常に分かりやすく書かれています.序文に,中妻先生のベイズ統計学への思い入れが書いてあって,そこがおもしろいです.「古典的統計学では,データが同じ状況下で繰り返し得られるという前提にたった分析を行います.しかし,例えばバブル崩壊といった,一回限りの経済現象を分析するには,古典的統計学では無理があるのではないでしょうか?」といった趣旨の主張が書かれており,ベイズ統計学を信奉するにいたった,中妻先生の気持ちが汲み取れます.
計量経済学をやってる方は,少しでいいのでベイズもかじってみてはどうでしょう?「どうせ古典的統計学は無理があるから,ベイズを使っちゃおう」というベイジアンは,あまりに単純すぎると僕は思いますが,古典的統計学について深く考えるきっかけをあたえてくれると思います.
ベイズ統計学と古典的統計学の違いについては,また違うエントリーで僕の考えをまとめてみたいと思います.その際,計量経済学ではベイズは忌み嫌われるのに,ゲーム理論では受け入れられている理由にも言及してみたいと思います.
末期ガンで余命3ヶ月を宣告された人が、「辛気臭くなりたくないから最後まで笑って死にたい」と言い、最後まで面白おかしく生き抜いた、という内容。芸人、嘉門達夫の親友だったらしいですが、結局6ヶ月も生きたらしい。
それで、通常は、「あなたは余命3ヶ月です」と宣告するのかしないのか、ということ自体が、その人の余命に影響を与えるんじゃないか、と感じた。この人の場合、明るい性格だったから、「どうせなら最後まで面白いことして生きていこう」と、とても前向きな態度でいた結果、 宣告余命よりも長く生きることが出来た。しかし通常、余命宣告されたら精神的にまいってしまって、すぐに逝ってしまう可能性もある。
だからこそ、余命宣告するのかしないのか、って議論があり、これが問題の本質なのかな。
それで、それがルーカス批判に似てると思った。ただそれだけ。最終的には経済学の関連する話に帰着されてしまう私は econonerdなんでしょうか。
ルーカス批判について、ルーカスの1976年の原論文を読んでいないし、僕には偉そうに語る知識はありません。興味がある方は、yyasuda先生の説明でも読んでみてください。
ルーカス批判その1:3点シュートとの意外な関係
ルーカス批判その2:ケインズとバロー
ルーカス批判その3:増殖するバロー
ルーカス批判外伝:非対称合理性
ミクロ経済学が専門の人が、マクロ経済学を語った言葉は、面白いですね。
(余談)
大学に入って1, 2年で習うマクロ経済学の知識は、ほとんど忘れたほうがいいかもしれません。ケインズ型消費関数とかIS-LMモデルとか、誰も信じていません。誰も信じていないことを堂々と教えているわけです。
とは言え、いきなり動学モデルを、高校を出たばかりでやる文系の学生に教えるのは、なかなか難しいですな。
基本的な使い方などは、EconWikiのほうに書いてみました(今後の少しだけアップデート予定)。自分自身用の備忘録につくったのですが、みなさん参考にしてください。「Mathematicaって大学でしか使えねぇ」、と嘆いていた方、Maximaに乗り換えたらどうでしょう?無料ですよ!高機能で。僕はもう乗り換えます。
大学の研究室のPCにもインストールされているし、これまでもとりあえず何不自由なくMathematicaを使える環境にあったけど、無料で同じくらいの高機能なものがあるならば、それを使わない理由はありません。
同じ理由で、有料なMatlabやGaussをつかうなら、完全無料なRを使わない理由はあまり見当たりません。(for文のループの処理速度がMatlabのほうが早いとN妻先生が以前おっしゃっていましたが、これが唯一の理由だと思います。ベイズはfor文を多用するから大変だなー、とかおもったものです。)
話はずれるが、学術論文はMSwordではなくTex(無料)が標準になっている。無料ソフトに頼りまくりな大学院生だったなー。おかげで研究費用があまりかからずすみましたが。
Maxima, R, Tex、などなど、無料で高機能なソフトがあります。知らない方は、いつまでもお金を払うのはバカらしいので、さっさと乗り換えることをおすすめします。
それと、結局、何が真実かなんてことは、推測の域を出ないから、自分の主張が絶対に正しいことを完全に証明することはできないよね、研究って。A(自分が考えた原因)だからB(実際の結果)になります、というのが自分の研究の主張だったとしてさ、いや、A以外にも、A'という原因があってBになってるかもしれないでしょう、とつっこまれたら、答えるのが難しいってこと。そのとき、いや、A'を原因とみなすことは難しいんですよ、という証拠を挙げることはできるが。すると、他の誰かが、いや、A''という原因があるのかもしれない、と言い出して。いつまでたっても自分の言いたいことが証明できないし、だんだん自分でも弱気になっていってしまう。
さらに、客観的に分析してるつもりでも、主観がたくさん入ってて、論文に載せる分析結果を、無意識に取捨選択してるな、って。なるべく客観的にやろうと自分ではしてるつもりだから、分析結果の頑健性を示すために、データ変えても推定方法変えてもいろいろ変えても同じ結果が得られますよ、とか書いているけど。でもきっと僕も、無意識に、バイアスのかかった論文を書いているに違いない。他の人が書いてる論文読んでて、「なんでこの推定方法の結果しか載せてないの」ということがよくある。きっと都合が悪い結果が得られていたに違いない。
修士論文を一人の力で書き上げ、他人に見せ、反映すべきコメントは反映し、反論すべきコメントには反論し(もちろん、論理的に。感情的にではなく)、という一連のプロセスの中から、得られるものとしては:
(1)論理的思考能力を身に着けることができる
(2)多様な視点を持つことの大切さを知れる
(3)他人を説得できるかどうかが生きる上で大切であることを知れる
(4)達成感を感じることができる
こんな感じでしょうか。
(3)が重要なことを特に学んだかな。自分ひとりで理解して楽しくなるだけではダメで、それを論文にまとめて他人にもある程度納得してもらい、学者の場合はジャーナルに載ってはじめて、研究成果が出たといえるわけで。一人でやっているだけでは一人よがりだし、そんなことは僕のようなひよっこにでもできる。まさにpublish or perish(業績を発表するか、消えるか)ということで、この競争原理が徹底されているアメリカでバンバン業績が出て、日本でほとんど業績が出ないのもうなづける。逆に、上手に自分の研究を宣伝する能力も大事みたいです。誰かの研究を少し改善しただけなのに、「いや、これは俺の貢献が大きい」と上手に宣伝できる研究者のほうが、有利ってこと。本質的な研究能力とは別だか、そういう宣伝能力も重要ということが分かった。
(3)が重要なのは、アカデミズムだけでなく、ビジネスでも同じでしょう、きっと。
以前書いた、共同論文もとても楽しかったが、単独で書く修士論文から得られるもののほうが大きかったかもしれない。
今日、初めてこの教科書に目を通してみた。蓑谷先生のこれまでの研究の総決算という印象を受けた。時系列分析もパネル分析もカバー。大学院レベルで日本語で書かれたものは、これまでなかったので、その意味で貴重ですね。しかもいままで蓑谷先生の教科書で勉強してきた人は、一章からすんなり読めるはず(記号の使い方とかが一緒だから)。英語苦手だよって人で、バイブル的なものが必要な人は、買って損はないかと。
パラパラめくってみると、幅広く扱ってる一方で、詳しく書いてあることも分かった。1000ページになってしまうのも納得です。
最近のエコノメの主流のテキストだと、母集団と標本を、明確に区別してる。例えばEconometric Analysis of Cross Section and Panel Data
「ぜんぶGMMとして理解しよう」というアプローチは、確かに勉強するとき分かりやすいので都合がよいが、どうもOLSやMLに対するリスペクトがない気もする。OLSなんてガウスが18世紀だったかに見つけたものだし、MLも20世紀初頭だったかにフィッシャーが整備した、歴史のある推定方法。対するGMMは1982年にLP Hansenが、すでにあったMMをGeneralizedしたってだけの、ある意味しょぼく、しかも若造の推定量(しかも、Amemiyaの1973年くらいの論文をちょっといじっただけだとも受け取れるし)。オイラー方程式から直交条件つくってGMMに持っていく一連の発想は、すげーアイディアだとは思うけど。
Econometric Analysis(Greene)
繰り返すと、英語苦手な人で、バイブル的なものが必要な人は、買って損はないのでは。英語できるんだとしても、Wooldridge, Hayashiとはアプローチが違う。アプローチが似ているGreeneは章立てがあまり良くない気がするし。結局、日本人だったら本書が役立つかな~、という感じです。
昔々あるところに
石原都知事の大学改革で、都立大学が首都大学東京になった際、経済学コースの先生たちが反発して、多くが他の大学に移ってしまった際の経緯を、物語風に書き立ててる。球技Aチームは経済学、球技Bチームは経営学、球技Cチームはマルクス経済学を指しているみたい。わかりやすい。と同時に考えさせられる。
大学教員の仕事は、研究と教育、の二つ。石原都知事は、研究を軽視し、教育を重視した。都民のための教育サービスを提供する機関としての大学の役割を重視するのが、改革だったみたいね。
これは、戸田先生のようにまともに研究をしている人からすると頭にきて当然。教育も大事だけど、大学の先生が研究しないと、学問は1mmも進展しないわけだから。この点、研究者としての大学教員の役割の重要性を、理解してもらいたい。もう遅いけど。
諸仮定をおき,抽象的な数学を使って経済モデルを構築し,「こういう仮定をおくと,こういう条件のもとで,望ましい経済状態が達成されます」とか考えるのが,かつての経済学者の仕事だった.これが,経済学は非現実的だの,役立たないだの,言われる理由だと思います.つまり,「現実はそんな仮定なりたたないでしょ」とか,「現実は数学じゃないでしょ」とか,「結局,経済学者のやってることって頭の体操じゃん」とかいう批判.
でも,最近,計量経済学が普及することで,経済学の雰囲気が変わってきてる.
例えば,
妊婦喫煙で子の肥満率3倍 山梨大教授らが千人を調査
というニュースをみて思ったんだけど,これ,医学部の研究者がやった研究だが,データが入手可能ならば,経済学の論文のネタにもなってしまう.妊婦が喫煙してると,子の肥満率が3倍になる,という結論は,計量経済分析をしても,導ける.ただし,経済学的な意義はなんなのだろう?ということは不明.
もう一つの例.
学力調査結果と離婚率、生涯未婚率
離婚すると,子供の学力低下を招く,みたいな分析も,計量経済分析で可能.ただし,これも経済学的な意義がどこにあるかは不明.
データさえあれば,計量経済学はそれなりに洗練された統計分析テクニックを作り上げてきたので,どんな分析でも出来る.「美人は得か?」を分析した論文もあるし(参考),「賞金が高いとプロゴルファーのスコアがよくなるか?」を分析した論文もある(経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)
これが最近の経済学の傾向なんだろうけど,最近の経済学の論文は,え,そんなことまでやるの?という感じがする.この傾向は,経済学者が現実に目を向けるようになっている点はすばらしいと思う(現実データとむきあっているんだから).
古典的な経済学者(数学モデルをつくって云々タイプ)からすると,きっと,「こんなの経済学じゃないよ」とか思うんだろうな.そして,いっぽう,計量経済学の専門家からすると,「計量の理論をちゃんと学ばずにテキトーに計量ソフトまわしてるだけじゃん」と感じてしまうのだろう.
もちろん,経済理論にしろ計量経済学にしろ,両方とも深い知識をもった上でこういう研究をしている研究者もいる.Chicago大学のSteven Levittなんかがその例.(彼が書いたヤバい経済学 [増補改訂版]
かなり気に入った文章を見つけた.論文の中のパラグラフ.理論の実証パフォーマンスが悪い理由の解釈を述べているもの.
A third general class of explanation for the results we obtained involves changing tastes. Just as the identification of traditional demand curves depends on the predominance of technological shocks relative to taste shocks, identification in models of the type estimated here depends on the maintained hypothesis of constant tastes. This is clearly a fiction. In every arena where taste shocks are easy to disentangle, fashion being an obvious example, they are pervasive. Even if the tastes of individuals were stable over time, the tastes of individuals of different ages differ, and the age distribution represented by the representative consumer has changed through time. An important topic for future research is the estimation of models that allow for changing tastes, either through random shocks, or endogenously on the basis of experience. The latter possibility relates closely to the problem of nonseparability in the utility function.ちょっと長いが,かなりこの文章好き.しかも,超有名論文でこれを見つけてうれしい.これは1985年にQJEで発表された,「GMM使えばこんなことできちゃうんだよ,すごいでしょ」ということが書かれた論文で,かなり有名.Mankiwは言わずとしれた一流のプロフェショナル・エコノミストだし,Summersは28歳でHarvardの教授になって財務長官とHarvard学長をやった天才.Rotemberg はよく知らん.この論文は,Classical Paperと言えるでしょう.あ,Claasical Paperとは,「みんなその論文を知っているが,誰も読んだことがない論文」と定義されます.
"Intertemporal Substitution in Macroeconomics," by N. Gregory Mankiw (with Julio Rotemberg and Lawrence Summers), pp.249
言っていることは,「人の好みは変わるに決まってるだろ」という一言に尽きます.何を当たり前な,と思うわれるかもしれませんが,通常,経済理論では「人の好みは不変」と考えます.専門的に言えば,「効用関数の形状(パラメータ)は不変」ということです.
理論経済学がそんなだから,計量経済学では一致性と仮説検定を重視するのだと僕は考えています.「理論なき計測はダメよ」という呪縛の根源でもあるんじゃなかろうか.
不変の経済構造があって,これはいつの時代も変わらなくって,そのとき,データが増えたら真理(真のパラメータの値)に確率収束するのだから,一致性は大事よ,というのが基本的な計量経済学のスタンスです.ところが,経済構造が不変でないのだったらどうでしょう.時系列の場合,サンプルサイズを大きくする=長いサンプル期間を考える,ということですが,経済構造が不変でなく変動するのであれば,「データを無限にとって,一致性を確保しよう」という主張は意味がなくなります.なぜならば,確率収束先となる真理(真のパラメータの値)がそもそも存在しないんですから(本当は,パラメータは時変なんですから),「サンプル期間を長くとって,サンプルサイズを増やせば漸近理論によれば,どんどん推定量はこのましい性質を持つはずだ(漸近的に真理を捉えられるはずだ)」という思考回路は無意味になってしまうからです.
大体,「サンプルサイズは5000あります,だから問題ありません」とか,逆に「サンプルサイズは50しかありません,だから問題あるかもです」とか,意味ない.数字の絶対値ではなく,あくまでの母集団との相対的な大きさが重要なのであるから.母集団が非常に大きければ,サンプルサイズは10000あったとしてもそれは小標本だし,母集団が小さければ,サンプルサイズは50でも問題はないかもしれないわけだから.
地方自治体の47のデータを全てつかって,「一致性あるからOLSしますよ」とか,何がしたいんだ.そのサンプル=母集団なんだから,「もう既に一致」してるはずだろう.それともあれですか,日本国を無限個の県に分割する日がやってくるとでもいいたいんですかそうですか.
話がそれてきましたが,人の好みが変わらないと想定し,あるモデルを作り,それを検証する.そのとき,計量経済学者は,
「その理論モデルが妥当する期間」を決めなければなりません.「この期間ならば,ファンダメンタルは変わらず,モデルの実証をするにふさわしいだろう」ということを決定しなけらばならない.
基本的に,人の好みは変わるし経済のファンダメンタルも時間を通じて変動しているはずなので,「ある時期は理論Aが支持され,ある時期では理論Bが支持されました」というのが,実際の経済なのだと思う.計量の論文で,いろいろと実証したけど,両論併記に近い結論しか出てこないのは,こういうことが原因だと思う.
さて,以上を踏まえれば「経済学とは,まったく正反対のことを言っている二人が,二人ともノーベル賞をとれる唯一の学問」というジョークも身にしみますね,あれしみませんか,僕はしみます.
さらに,仮説検定に計量経済学者はこだわるわけですが・・・.まぁ,僕も初めて仮説検定というものをならったときに,なんて科学的な分析なんだ,と感じた.それは,紛れのある背理法とでも言えばよいのだろうか,とにかく,厳密モデルが成り立ち得ない現実を分析する際の,すばらしい発想だと感じた.
でも結局,Type1 errorとType2 errorの間のトレードオフを,経済的損失に基づいて考慮し,最後は分析者の主観に基づき,有意水準を決定し,初めてこれは科学的な分析になるわけですが,実際にはみんな5%とか1%みたいなキリがいい数字を使っているだけですね.たまにうまくいかないと10%で有意と言い張ってみたり.あはは.それならば,6%有意水準で有意です,とか言ってみたい.このあたりのことは,『ノーベル賞経済学者の大罪』という本に詳しいです.
とにかく,有意水準の決定もテキトーにやっているのに,仮説検定にやたらこだわったり,サンプルサイズについてあまりよく考えない.いったん思考停止したら,最後は「一体なにをやってるんだ俺は」と計量ソフトがはじき出す数字におぼれるのみですね.5%とか1%って,根拠なく決められた有意水準をつかうならば,計量分析なんて人間の出る幕はなく,すべてコンピューターがやってくれるではないか.分析者の主観が混じるのは科学的ではないとかいうが,主観が混ざらない論文なんか読んだことがない.実際には多分に混じっているものなのです主観は.だからといってベイジアンほど楽観的にはなれませんが,しかし,ベイジアンにはかなり親近感を感じます.主観を堂々と混ぜるべきところは,結局,有意水準の決定でしょう.統計的有意ではなく,経済的有意な結論を出すには,損失関数の評価をどうするか,という分析者個人が主観で決めるべき問題で,論文の主張の妥当性は,その主観的判断を,どの程度,他の人間もが同意できるか,で計測されるべきなのだろう.
・・・ときれいごとを述べまくってみましたが,現実はいつも甘くなく,業績出したかったら学界に溶け込むべくこの世界のルールに従いみんなと同じことをやれ,ということになってしまいますね.
経済学者は反省しなさい,と強烈なメッセージを送っている以下の本はオススメです.
ノーベル賞経済学者の大罪
この本にはかなり影響を受けました.でも,トンデモ本では決してなく,非常に優れた経済学者が書いた本です.
Jagannathan, R. and Y. Wang, "Lazy Investors, Discretionary Consumption, and the Cross Section of Stock Returns," The Journal of Finance, 2007, 62 (4), 1623-1661.
アメリカでC-CAPMがうまくいかないのは,毎期毎期,経済主体は最適な意思決定をしているわけじゃないからだろう,という仮説を検証した論文.第四半期をベースにモデルを検証すれば好ましい結果になるよ,と報告している.原因について,
We suspect that this is more likely to happen during the fourth quarter, given investors' tax year ends in December.だとさ.本当かいな.でも面白い事実発見ですな.こんな解決法もあるのか.
あ,この論文の古いバージョンは,http://www.afajof.org/afa/forthcoming/2543-a.pdfから無料で読めます.
http://gregmankiw.blogspot.com/2007/10/my-bet-on-nobel.html
Mankiwの予想は,"Fama, Feldstein, or Barro"とのことですが,どうでしょう.経済学の場合,(自然科学と違って)若造がとることはまずないことを考慮すると,この3人の名前が挙がるんでしょうね.あとは,これまでの流れみたいなものもあるし(同じ分野で連続してあげない,とか,そういうことがある).そういうことも考えるとやはり,この3人のうち誰かということになるんだろうか.
今年とるかどうかは別にして,そのうち確実にとると思われる人リストだったら,ほかにも名前が挙がるんだろうけど.たとえば,LP Hansen, P Krugmanとか.Steven Levittはどうなんだろう.
ま日本人には,少なくとも向こう数十年は縁が無い話だ.日本人が獲れるかも,というところに行くには,向こうのトップスクールでPhDとって,そのままトップスクールに就職決めて,じゃんじゃんトップジャーナルに業績だして,そのままトップスクールでテニュアとって,ノーベル賞候補になりましたね,・・・ってゆう日本人がじゃんじゃん出てこないと行けないわけだが,現実にそんな日本人はほとんどいないし・・・可能性があるとしたら,今の僕の世代以降のスーパースターが起こす奇跡にかけるしかないんじゃないか.
ちなみに,
引用回数ランキングTOP1000(1975-2000)
に登場する日本人は,以下でした.数字は順位.括弧内は略歴.
61 Amemiya,-Takeshi (ICU -> PhD from Jonhs Hopkins -> Prof at Stanford)
174 Hayashi,-Fumio (Univ. of Tokyo -> PhD from Harvard -> Prof at Univ. of Tokyo)
556 Aoki,-Masahiko (Univ. of Tokyo -> PhD from Minnesota -> Prof at Stanford)
607 Matsuyama,-Kiminori (Univ. of Tokyo -> PhD from Harvard -> Prof at Northwestern)
821 Ito,-Takatoshi (Hitotsubashi -> PhD from Harvard -> Prof at Univ. of Tokyo)
963 Suzumura,-Kotaro (Hitotsubashi -> PhD from Hitotsubashi -> Prof at Hitotsubashi)
・・・というわけで,KeioのKの字も見当たらんのが現実でして.Book smartな人材はUniv. of TokyoかせいぜいHitotsubashiが供給してくれるので,KeioはStreet smartな人材育成に力点を置き,academicな大学院に資源を配分しません,というのが安西政権の考えなのだろうか,と以前から思っていたが(Law schoolへの力の入れようと,graduate school of economicsなどへの力の入れなさ具合を,露骨に感じる),これを見たら何も文句は言えないよなー.
ところで,Suzumura Kotaro先生すごいな.海外でPhDとってないのにこれだけ業績あげるとは.
(補足)
過去の受賞者一覧は,こちら
http://www.nobelprizes.com/nobel/economics/economics.html
http://blog.livedoor.jp/yagena/archives/50318042.html
経済学の世界で,論文を盗作したという話が公になるのは,僕は始めて聞いた(盗作疑惑をもみ消したという例は,うわさで聞いたことがある).
なんというか,世の中にはたくさんのジャーナルがあって,誰にもほとんど読まれない論文のほうが圧倒的多数なのだから,ぱくってもばれないだろう?と思ってやってしまったのだろうか.
実際,この例も1993年の論文が,1980年の別の論文の盗作とばれるまで,14年もかかっている.むしろ,たった14年でばれたことのほうが,非常に小さい確率の事象が生じた,という感じがする.
Google Scholarが進化して,論文の内容までもをデータベース化したら,誰が誰を盗作したか,ということを一つも見落とすことなく,発見・暴露してしまう気がする.たぶん,他にも盗作があるんじゃないかなぁ.そういう意味で,この人はばれたことのほうが運が悪かったのかもしれない.もちろん盗作は許されない.
数十年後,Google Scholarが盗作暴露する能力を有するまで進化したら,いったい何件の盗作が明らかになるんだろう・・・小さな数字では済まない気がするが,その時点ではもう引退・死亡している研究者も多いだろう.
まとめると,「どうせ盗作なんか,ばれっこないっしょ」と思っていても,Googleが近い未来絶対に暴きにくるから,やるなよ,と.
(追記)
今年の8月号で,盗作論文が載っていたジャーナルで,盗作のことが発表されていた.
こんなサイトを発見.でもグラフしか見れない模様.データをcsvファイルなどで落とせないみたい.いくら正確なデータだとしても,頭使わずにデータ鵜呑みにすると間違うことは多々あるけどね.たとえば,ウィル・ロジャーズ現象.
名前の由来は、アメリカのコメディアンのウィル・ロジャーズが言った「大恐慌のとき、オクラホマ州の住民がカリフォルニアに移動して、平均知能はど ちらの州も上がった」というジョークのようである。全体でも見ると、もちろん平均知能は上がっていないが、二つの州を別々に見ると平均知能が上がってい る。
これが統計学用語に置き換えて考えると、「サンプル全体では変化していないが、サブサンプルに分割してみると、全てのサブサンプルで同じ変化がおきている」ということが起こりうる、という点が面白い。
悪意ある人がこれを使うと簡単に大衆を騙せちゃうから怖い.
Robert Shiller大先生のおかげで,データ整備にかける労力を削減できたのが大きい.といいつつも,Shillerのデータが正しいか,一応ソースをあたって確かめたわけだが.いや,ほんとShiller大先生のおかげだ.彼のウェブサイトのここ(http://www.econ.yale.edu/~shiller/data.htm)にいけば,危険資産や安全資産や消費データや物価水準データなどなどが,実質化されたものも含めていろいろ手に入ります.月次と年次の両方あって,なんとサンプル期間は1871年あたりからある.ありがたやー.
幅広い視野に支えられた高度な専門知識と研究能力の育成を目指している.これは言うに易くして行うに難い課題である.「幅広い視野」は「浅薄な雑学」になりやすく,また「高度な専門知識と研究能力」は「専門馬鹿」のしるしと見られがちである.いいこと書いてあるじゃんってそのとき思ってたんだが,今になってこの言葉が身にしみる.別に経済学に限ったことではなく,どの分野でも言えることだと思う.
あるとき,ある先生が別の先生のことを「マリアナ海溝」と例えていた.一箇所を深く掘り下げまくっていて,その分野の専門知識の深さを敬う言葉であると同時に,ほかの分野に詳しくないという意味で,これは「専門馬鹿」ということでもある.ちなみにその先生は自分のことは,「大陸棚」と笑いながら言っていた.浅く広く,ということですね.
で,深さと広さのどちらを重視すべきか,この間のトレードオフは個人の好み・ウェイティングによって異なるだろう,と思っていたんだが,今日またある人と話をしていたら「体積を最大化するべきだろう」と言っていた.
なるほど,これは一つの基準だな,と思った.体積=広さ×深さ,なわけで.それならば,きっと立方体みたいになるのが最適化の解ですね,といったら,いいや,球体が理想だ,ってその人に返された.
これは一つの真理を言い当てている気がした.
抽象的な話で分かりにくいんだけど,球体や円というものは,なんとなく不思議な魅力があるわけで.その人の話によれば,「表面積を一定にしたとき,体積が最大化される立体は球体だから」とさ.僕は,(たて+横+深さ)を一定にしたときの体積最大化問題の解として立方体といったわけだけど,表面積一定で考えるあたり,どうも普通の発想ではない.
普通の発想ではないが,その答えが,なんか理想的な香りがした.
学問に限らず,自分の持っている知識や経験などを見ると,やっぱりけっこう偏っている.僕がある程度興味があって知っている分野を書いていくと,経済学,統計学,金融,政治,数学,IT,ビジネス,哲学など.他方,(興味がないわけじゃないと信じたいけど)あまり知らない分野を書いていくと,法学,文学,医学,ジャーナリズム,工学,物理,化学,心理学など.
自分の知識の形は,球体にはほど遠く,いびつな形をしているな~って感じた.言いたいことは,「なんとか一生かけて,自分の知識の形状を球体に近づけたい」と.
GMMのお勉強.勉強する習慣に徐々に戻りつつある.もうちょっとペースアップしていきたい.
真剣にやらないといかん.テーマは決まっていて,Equity Premium Puzzleを解こうとしているんだけど,もうPuzzleが解けそうなことは目に見えているので,楽しくやれそうです.Puzzleを解く戦略は基本的に二つあって,でもまだ他言したくないから,それらを仮にβ戦略とγ戦略とここでは呼んでおこう.βとγ上の複合戦略も可能だが,あんまり複雑になると作業が増えるので,ほどほどにしたい.
この研究ネタは,科学について深く考察する良い機会になるっぽいと感じている.
Equity Premium PuzzleはMehra and Prescott(1985)で報告されたPuzzleで,C-CAPMの欠点をさらけ出したものなんだけど,羽森茂之(1996)『消費者行動と日本の資産市場』によると,日本のデータを使うと,そんなPuzzleは存在しないことになっている.
それで思ったんだが,一般に,「異なる国,異なる時代,異なるfrequencyのデータを使って同じ実証分析をやって,結果が違った場合,それをどう解釈するべきか」,ということ.実証するときは,条件をいろいろと一定にしないといけないと思うんだけど,現実に経済学で実証分析のの論文を読んでいると,そんな配慮はゼロ.サンプルサイズを同じにする,という程度の工夫もない.
アメリカ人が観測しようが,日本人が観測しようが,天体の動きは変わらない.でも,経済の場合,日米で国民性の違いとか制度の違いがあって,データ発生機構が同じではないはず.さらに時代が変わることでも,やはりデータ発生機構は変化するに違いない.たとえば,昭和の大学生の消費選好と,平成の大学生の消費選考が同じなはずない,とか.え,まさか?同じだって本当に信じてるの?うそでしょ?
計量分析で,一つのサンプルをボンって持ってきて,それに対して仮説検定に基づき白黒つけるやり方の背後には,「そのサンプル期間で,経済の構造(データ発生機構)が変化していない」という暗黙の了解がある.しかし,経済学者は,どれだけ本気でこれを信じてるんだろう.
さらに言うと,経済の構造が不変と信じているからこそ,その唯一つのデータ発生機構からもし無限にデータが取れたとすれば,真理(分布を規定するパラメータの真の値)に近づけるんだ,だから一致性が大事だ,という議論になっているはず.
時代とともに経済のファンダメンタルは変わるし,国ごとにも変わる,ということを受け入れてしまえば,「アメリカではEquity Premium Puzzleがあるが,日本ではない」とか「1970年のデータではこうだったが,最新のデータで追試したら違った」というような状況をよく理解できる.
天文学者が「天体現象に関する,時代や場所には依らない,普遍の法則があるはずだ」という信念を持つのと同様に,「経済現象に関する,時代や場所には依らない,普遍の法則があるはずだ」という信念を,本当に経済学者は持てるのだろうか?そんな信念,ハナからおかしい気がしている.
だから,ある経済理論Aがあって,その反対の理論Bがあったときに,「データを分析したら,この国の,この時代は理論Aが正しくって,別の国で,この時代だと理論Bが支持された」という結論を出しても良いと思う.そういう視点がないから「いろいろ計量的に分析してみたんだけど,理論Aと理論Bのどっちが妥当するか,よくわからないから両論併記で」みたいな,一体なんのための論文書いたんだよ,というような論文が世の中にたくさん出てくる.
言いたいことは,経済学者はみんな,クープマンスの「理論なき計測はダメよ」って言葉に縛られすぎ,ってこと.
あれ,なんの話してたんだっけ.そうだ修士論文だ.ここ数日でC-CAPMをさらっと勉強したから,次はGMMをやるか.ちょーどこの本で,GMMのところ輪読あたってるし.一石二鳥.
というわけで,Puzzleが解けたことを強調するためには,データはMehra and Prescottと同じものを使わないといけないな,と.
という過激なタイトルをつけてみた.
計量経済学とは,広義ではデータ解析の学問.狭義では,経済理論の妥当性を経済データを調べることで検証する学問.狭義を重視する経済学者が多いから,「理論なき計測はダメ」ということが言われる.理論なき計測=measurement without theoryは,クープマンスが書いた有名な論文からきている表現.クープマンスみたいな偉い人が言ったことで,いまに至るまでみんなこの表現に囚われている感じがする.でもクープマンスが書いたその論文に対して誰かがダメだしをして,クープマンス自身,「ごめんなさい論文」を書いていることはあんまり知られてないようだ.ダメだしした論文の趣旨としては,「地道な計測結果の蓄積が真理の発見を助けた事例は歴史にたくさんある(たとえばティコブラーエの観測結果とケプラーの法則).だから,理論なき計測だってよいんだ」という感じだった気がする.
理論なき計測を批判するのに,逆は批判されない雰囲気がある.すくなくともこれまではあった.これからは変わっていくのかもしれないけど.
とにかく,理論なき計測はダメだ,という風潮が強い.この風潮があるからこそ,計量経済学が「一致性」という分析方法の持つべき性質にこだわっているような気がする.
計量経済学では推定にあたって「一致性」という性質が重視される.一致性とは,「データ(観測)を増やしていけば,だんだん真実に近づいていく」性質のことを言う.語弊を恐れずに言えば「一致性とは,漸近的に真理を捉えること」と言える.あるサイコロがあって,1の目がでる確率はいくつか?を知りたいとする.普通は1/6ということを知っているわけだけど,これを仮に知らないとする.そこで,実験する.6回ふって1が2回でたとしよう.この時点では,2/6だと推測する.次に,60回ふる.すると,13回でたとしよう.この時点では,13/60だと推測する.600回ふる.すると,105回でたとしよう.この時点では,105/600だと推測する.つぎに6000回ふる・・・・このように,回数を増やせば,だんだん真実の値(=1/6)に近い値が得られる.6回しか振らないときは,3回くらい1が出ることは大いにありうるが,6000回も振って3000回も1がでることはほとんどないだろう,ということである.これを大数の法則という.
計量経済学者が分析する上で重視する「一致性」とは,大数の法則に基づいている.上の例で,サイコロを振る場合,当然,サイコロはずっと同じものをつかっている.サイコロの形は変わらない.では,経済学の場合は?経済学の場合だと,サイコロの構造を知りたいのではなく,経済の構造を知りたい.その構造を知るために,経済データを得て,「一致性」があるような分析をしたいと考える.ところが,一致性とは,「データが無限にあるとき,推定結果が真理に近づく」という性質を言っているので,データが無限にあるような状況を考えないといけない.だから,たとえばクロスセクションデータで,都道府県47個のデータをつかって分析して,一致性があります,とかいうのは茶番にしか見えない.だって,47個すべてのデータを使っているのだから,それ以上データの個数は増えない.それ以上,分析の精度は改善されない.背後にある母集団の大きさとサンプルの大きさの相対的関係についてあんまり深く考えずに一致性があるからダイジョウブ,という議論は,浅はかな議論で,「これは一体,何の分析を行ったの?」と思ってしまう.
もう一つ.サイコロの例で,使うサイコロはずっと同じだった.サイコロの構造はずっと変わらなかった.でも,経済の場合,経済構造は変わっているだろう.だから,そもそも計量経済学で一致性が必要だ,みたいな議論が意味ないのでは?と思ってしまうことがある.こんなこというとすごくむなしいんだけど.じゃぁどうすればいいのか,という議論はまた別.理論なき計測という言葉に囚われているばっかりに,こうなってしまっているのだろうね.どの時代にも妥当する普遍の真理的な経済理論は存在しない.あるときは経済理論Aが正しく,またある時代には経済理論Bが正しいのだろう.
自然科学でたとえば惑星の運動法則に関する理論があって,データがこれを支持したとする.惑星の運動法則はおそらく数百年前も今日も同じだろう.だとすると,データは多ければ多いほどよい.ある数年のデータを使うよりも,100年分ぜんぶの観測データをつかったほうが,理論の検証は精度があがるだろう.
でも,経済の場合,数百年前の経済構造と,今日の経済構造が同じとはとても思えない.だから,「データが多ければ多いほどよい,なぜならば大数の法則に基づいて一致性のある分析が得られるから」というのは,「経済構造が変わっていない期間の中で」という条件をつけないといけない.計量経済学をするためにこれは絶対に考えないといけない.「理論が妥当する単位期間は?」という問いを,みんなわすれちゃってる感じがする.
でもこれを思い出したところで,「一致性」はデータが無限になったときに真理に近づける,と言っているに過ぎないわけで,そもそもデータがそれほどとれない場合はどうしたいいか?という疑問が残る.たとえば,さっきの都道府県の例.あるいはミクロデータで個人の消費データであっても,せいぜい1億3千万しか日本人いないのだから,データは無限にはなりえない.いったい母集団として何を想定しているの?サンプルサイズは,母集団に対してどれくらい大きいの?一致性って,何?ということを考えてみたら,計量経済学なんて茶番だ,という感じがしてくる.
こんなウェブサイトを発見.
『博士の生き方』という名前のサイトなので,えぐい情報がのってるのかと思ったら,さらっと見たら,理系の博士の話らしく,あまり悲観的なことは書かれていない.むしろ,トップページに
「博士の就職は難しい」このようなことを大学にいてよく聞いてきました。私は思うところあり、企業への就職という選択をしましたが、実際に就職活動をしてみて博士だからといって就職が不利になるという感覚はいだきませんでしたし、内定も無事に得ることができました。
とあるように,けっこう楽観的.つーか,これ,本当かよ?
文系に限った場合はどうなんでしょ.経済学に限った場合はどうなんでしょ.私立か国立かでも状況は違うのかな.大学によってもけっこう違うんだろうな.
このブログを読んでる人で,院進学を考えてる方は,よーく自分が行こうとしてる大学院の院生の進路状況について調べることを薦めます.こんな都市伝説は誇張だとしても,けっこう院は悲惨な側面も確かにあります.
特に,シュウカツ失敗したから院行こうかな,って思ってるひとは,ぜったい院にきても辛いだけなのでぜったい辞めたほうがいいと思います.
Fair Taxes? Depends What You Mean by ‘Fair’ @NY TIMES
億万長者のWarren E. Buffettが,「もっと金持ちに課税するべきだ」と発言したことについて,Gregory Mankiwが記事を書いている.Mankiw Blogに,アメリカにおける所得別の課税率が示されている.この表をみて,「もっと金持ちに課税するべきだ」と考えるか「もう十分金持ちには課税がかかっている」と考えるかは,個人の判断に依存する.そう,経済学では「公平」という概念をほとんど考えない.
リンク先のNY TIMESの記事で,
Fairness is not an economic concept. If you want to talk fairness, you have to leave the department of economics and head over to philosophy.(公平性は経済学で考える概念ではない.公平性について議論したかったら,経済学部ではなく,哲学科に行きなさい.)
とMankiwも明言している.気持ちいいくらいの開き直りにも見える.経済学を知らない人は,経済学者の意見に「それは公平でない」といったりするけど,そもそも,「あなたの考える『公平』ってなに?」と経済学者は考える.所得の公平を考えるのは社会主義.機会の公平を考えるのが資本主義.
そうはいっても,機会の平等を確保した結果,格差社会が生まれると,「格差社会は問題だ.不公平だ.」と言う人が出てくる.でも,「公平」ってどういう意味でいってんだろう?
たとえば,以下のようなことを考えてみる.
(i)所得最下層が,「食うに困っている」状況ならば,即刻なんとかしないといけない.
(ii)最下層の子供がやはり最下層になる社会も良くない.最下層の家庭に生まれると教育にお金をかけられず一流大学にいけず,一流企業に就職できないからやっぱり大人になったとき貧乏になってしまう,という経路を経て,格差が世代間で再生産されるおそれがあるが,それはよくない.
(i)で考えているのは,「いくら資本主義・競争主義がいいと考えたとしても,競争に負けたひとが死ぬような社会はよくない」ということ.競争に負けても最低限人間らしい生活が出来ればよい,と.ここで「最低限」のレベルをどう考えるかは,またまた個人の判断で,これについて「私はこう思う」と述べるのが政治家の責任だと思う.経済が豊かになればなるほど,この「最低限」レベルも上がっていくのだろう.
(ii)で考えているのは,「機会の平等」を確保した結果,競争に負ける人と勝つ人が出てきて,その子供世代では「機会の不平等」が生まれてしまうことを懸念している.実際,トップの大学に通う学生の親の収入って,おそらく普通の大学にかよう学生の親の収入より結構高いんじゃないか?
日本でいま格差社会の議論が多くって,特に野党は格差問題を取り上げがちだけど,「格差社会だ,不公平だ,金持ちにもっと課税しろ」という,いかにも大衆ウケしそうな,単純な議論はやめてほしい.
(補足)
・Buffett発言は,彼の所得はCapital Gainからのものが大きいため,彼に対する税率は,ほかの大金持ちに比べて低いことが背景になる.Capital Gainは株があがったり配当が増えたりすることによる利得だけど,株式配当の源泉は企業の利益で,この企業利益にはすでに課税されているわけだから,「二重課税」になっている点で,そもそもCapital Gainに対する課税は高くあってはならない,という議論もある.この点を注意.
・Buffett発言は,Hillary Clintonの後援会みたいなところで起こったらしい.アメリカ民主党は,「自由と平等」だと「平等」を重視する政党で,どちらかというと貧乏人の味方である.だから,民主党支持者にとっては,Buffett発言は支持率上昇のためのかっこうのネタとなったのだろう.「大金持ちのBuffettが,『もっと金持ちに課税するべきだ,現状は不平等だ』と言っている」,というのは,大衆の支持をいかにも受けやすそうだからだ.
初めての学会で緊張していたけど,あっという間に終わってしまった.こんなもんかな.
ファイナンス学会は,経済学に限らず理工系の研究者,ビジネススクールの先生なども参加している.さらに,金融の実務家(銀行などで働いている方),政府当局の関係者(日銀所属の研究者)などもいる.とにかくいろんな分野の人がいるところだったし,学会のアカデミックな雰囲気は気持ちが良かった.そして,そこで発表できて楽しかった.討論者の先生が好意的なコメントをしてくださって,感謝します.
日銀の岩田副総裁が「ヘッジファンドと国際金融市場」というタイトルで特別講演も行ってた.会場,満員だったな.聴衆の中を見ていても,有名教授の顔がいたり.そして,講演内容はすばらしいと思った.・・・さっそくニュースになってる.
ヘッジファンド情報を直接収集…岩田日銀副総裁が方針表明@読売新聞
岩田副総裁は、ヘッジファンドが、多くの資金を供給して金融市場の流動性を高めていることなど、一定の役割を評価した。その一方で、ヘッジファンドが破たんすれば金融システム全体を不安定にする危険性も指摘し、日銀がヘッジファンドの情報収集に力を入れていく方針を表明した。
講演の最後にすこし時間あまったので,司会者(池尾先生)が,「質問を受け付けます」といったときに,「どうやってヘッジファンドから情報収集するんですか?彼らに情報開示するincentiveないと思います.」って聞きたかったんだけど,大会場で満員で,有名教授も聴衆にいるような状況だったので,「は?なにあの若造」となりたくなかったので,院生に質問できる雰囲気ではなかったな(笑)・・・と思ったら,この質問を別の先生がしてくれた.答えは,ヘッジファンド関係者からヒアリングをするとか,そんな感じだった.すると,さらにつっこんだ質問,「情報を法的に強制的に提出させる手段は考えているか?」がでた.答えは,「その予定はない」だった.
日銀の副総裁ともなると,変なこと言えないから,発言に注意しないといけなくって大変ですな.
今週の土日の二日間,日本ファイナンス学会が開催されます@慶應義塾大学,三田キャンパス.詳細は,以下です.
僕は,二日目の14:30~15:10に発表します♪場所は,西校舎の526です(会場C Statistical Modeling of Financial Data).
学会発表は初めてなので緊張気味,というか学会に参加すること自体初体験♪楽しみです.
http://www.sugi-shun.com/papers/KESDP_07-2.pdf
英語バージョンのDiscussion Paperを作りました.まだシェイプアップすべきところが多々あると思いますが,いい閃きが降りてくる&自分の研究意欲が高まる時期が来るのを待つしかありませんな
この論文も楽しかったが,修士論文もやらないと.
先週聞いた研究発表に「ビューティ・プレミアム」というものがあった.論文の要旨は,以下より読める.
http://www.jeameetings.org/2006/Program/2006/Yasui-1022am1r841.pdf
Beauty Premium とは,容姿の良さがもたらす賃金の割増分,と定義される.要は,「美人は得」ということわざって本当なの?ということを回帰分析した論文.結論は,Beauty Premiumは存在する,となっている.美人は得なんだってさ.
もちろんツッコミpointもある.データに客観性がない,限界効果になんの意味があるのか,一致性はあるのか,ほかの業種だとどうなのか,本当に因果関係なのか,etc.
でもこの結果自体,けっこうおもしろいと僕は思った.でも発表途中で聴衆から「Beauty Premiumを実証して,なんの意味があるんですか?」という質問があがっていた.それで,学問の目的ってなんなんだろう,とか考えてしまった.全ての研究は,現実社会の役に立つ研究でないといけないのだろうか?それとも,「おもしろい」とさえ思えればそれでいいのだろうか?Beauty Premiumの論文は,この研究自体がおもしろいと思った.
発表者は,研究のモチベーションとして,もしもBeauty Premiumが存在すると労働市場のパレート効率性が損なわれるからこの研究は大事だ,と冒頭に述べていたけど,仮にパレート効率性が損なわれていなかったとしても,この研究はおもしろいからそれでいいと思うんだけどなー.
昨日ショッキングなことがあったんだが,プラス思考しようと思って,この論文をちゃんと読んでみた.
http://web.mit.edu/alo/www/Papers/JIC2005_Final.pdf
著者は,『ファイナンスのための計量分析』でも有名なMITのAndrew Lo教授.計量ファイナンスの世界で大御所.
この論文では,Adaptive Market Hypothesisなる仮説が提案されている.直訳すれば,「適応市場仮説」とでもなるのかな.ここで「適応」とは,生物学における進化論と同じ意味でLoは使っている.つまり,生物が環境の変化に適応しようと進化していくのと同様に,市場参加者が市場環境の変化に適応すべく,進化・変化していくようなモデルを考えている.
通常,経済学者は「合理的期待」とか「均衡」とかいう概念が大好き.人々が合理的ならば自己の効用なり利潤なりを最大化するはずで,その結果達成される市場均衡は,非常に良い状態(具体的にはパレート最適とか)になれるんだ,この考え方が経済学の基本.アダム・スミスの「神の見えざる手」という表現にこの考え方は凝縮されている.
Loの仮説では,市場参加者は市場環境の変化に適応し進化していく状況を考えるということは,「経済主体は変化する」状況を考える.ところがこれはアダム・スミス以来の上記の経済学の考え方に大きく反する.主流派は,「人は常に効用を最大化している」つまり「人は時代を通じて変化しない」と考える.
まとめると,伝統的経済学では「人々の好みみたいな基本的な性質は,生まれてから死ぬまで不変」と考えるが,Loは「人々の好みは,時代や環境や年齢とともに変わる」状況を考える.だからLoの発想はとても刺激的で,経済学の主流の人たちは到底受け入れないだろうな.
で,まだ院生で24歳の僕は,「は?Loなにいってんの?伝統を重んじようよ」とちょっと思ってしまった.だいぶ経済学の古い世界に漬かってしまったということか・・・.新しい考え方が出てくると,必ず伝統派にたたかれる.いつの間にか僕は「伝統派」にちょっぴり傾いてしまったようだ.新しい斬新なアイディアが出てきてそれが正しいとすると,自分がそれまで時間をかけて勉強したことの価値がなくなるので,伝統派は新しい危険な発想を受け入れ拒否するincentiveが働くから,仕方ないんだけどね.
Loの仮説を読んで思ったのは,不思議の国のアリスの話.
「さあさあ」女王が叫んだ。「もっと速く、もっと速く!」 2人はあまりに速く走ったので、そのうち空中をかすめ飛んで足がほとんど地面に触れないくらいになった。アリスは不意にすっかり疲れ切って立ち止まると、息切れとめまいを起こして地面に座り込んでしまった。女王はアリスを木にもたせかけて立たせると、優しく言った。「少し休むといい」
アリスは周りを見回して驚いた。「あら、ずっとこの木の下にいたみたい! みんな元のままだわ!」
「もちろん元のままだとも」と女王が言った。「どうなると思ったの?」
「だって、私たちの国では」アリスはまだ息を切らしながら答えた。「普通どこか別な場所に着くものだわ——あんなふうに速く長い間走っていれば」
「それはまたのろまな国だこと!」女王が言った。「ここではね、同じ場所に居続けようと思ったら、ずっと走ってなきゃいけないわ。
どこか別な場所に行こうと思ったら、その2倍は速く走らないと!」
ソースはここ.
時代(市場)も動いているし,周りも動いている(市場参加者ももうけるために分析している)んだから,普通に動いている(普通に投資)だけでは,同じ場所にいるだけ(市場平均のリターンを得るだけ).誰かより先に行きたかったら(市場平均を凌駕したければ),二倍の速度で歩かないと(とっても有能でないと)いけない.
こう書くと,Loの発想のほうがむしろ自然だと,経済学の素人は思うかもしれないね.
『市場効率性の時変構造』というディスカッション・ペーパーが完成しました.というわけで,論文の宣伝.以下より無料でダウンロード可能です.
http://www.sugi-shun.com/papers.html
この論文は,今年6月17日(日)の日本ファイナンス学会,第15回大会@慶應大学三田キャンパスで報告予定です(確か午後の部だった気がする).興味のある方はぜひ.
ところで,「お前のblogは難しすぎる.意味不明.」という指摘を何人かに受けた.尊敬される専門家とバカにされるオタクの違いは,「自分のやっていることを,その分野の素人にも分かってもらう気があるかどうか」だと思う.オタクもいいが専門家のほうがもっといいので,もっとみんなに分かってもらえるように努力します.
というわけで,論文を,素人向けに説明をしてみよう.
論文の主張は,「株の動きの予想がカンタンな(したがって儲けやすい)時代と,難しい(したがって株で儲けにくい)時代がある」ということです.
この研究によれば,例えば次のようなことが分かった.
・戦後もっとも株価の予想がカンタンだったのは,1960年頃,1973年頃,1987年頃の3つの時期!逆に,株価予想がもっとも難しかったのは,1992年頃!
・アメリカと比べると,日本のほうが株価は予想しやすい!
株価は予想可能かどうか,という研究は,これまで学者たちは大量にやってきた.大量にやってきたくせに,予想可能かどうか結局,学界は答えを出せていない.
答えを出せなかった原因は,これまでの研究では,「株価は予想可能」or「株価は予想不可能」のどちらか一方のみが真実で,もう一つは偽だと考えていたからだ.
物理学で,「摩擦0の世界」を考えるけど,現実にそんな世界はどこにもないことはみんな知っている.同じように,経済学で「株価が100%予想不可能な株式市場」を考えるとしても,現実にそんな世界はどこにもないのだ.だからといって「株価は完全に予想可能」な世界もどこにもない.
灰色を見て,「これは黒よりは白に近い」と思う人もいれば,「これは白よりは黒に近い」と思う人もいる.そういうときに重要なのは,「どれくらい灰色なの?」という相対的な問題を考えることである.
だからこの研究では「どのくらい灰色なの?」という問いを設定した.昔よりは今のほうが株価は予想しやすい,とか,アメリカよりは日本のほうが株価が予想しやすい,などの,相対的な問題を扱うことにした.
こういう相対的な比較を行なった研究はこれまでないので,そこがこの論文の貢献部分です.
Robert Shillerのベストセラー本,"Irrational Exuberance"の2005年のSecond Editionをようやく読了した.First Editionは2000年に出たこれ.邦訳版も出ている模様.ただしFirst Editionの邦訳である点に注意.2000年から2005年までの株式市場と住宅市場の分析が追加されているので,当然読むならSecond Editionを薦める.英語の勉強にもなるし.
で,中身.Shillerのスタンスは「効率的市場仮説?なにそれ?そんなもの信じる人いるの?え?信じてる人いるの?うそでしょ?」という感じ.効率的市場仮説については,このエントリーを参照.効率的市場仮説の背後には,学者たちの市場への絶大なる信頼感と,人々は合理的であるという都合のよい思い込みが存在してい.ところがShillerのタイトル"Irrantional Exuberance"(根拠なき熱狂)を見ればわかるとおり,Shillerは「人々が合理的なわけないだろ」と考えている.
とはいえ,Shillerは経済学界でメインストリームに座る権威.従来の経済学者は「人は合理的」を信じ続けていたが,最近は「人は合理的ではない」として心理学を経済学に輸入した行動経済学とか行動ファイナンスとか呼ばれる分野も台頭してきている.
効率的市場仮説を徹底的に信じている学者もいれば,Shillerのようにまったく信じていない学者もいる.信じている学者の代表が,『ウォール街のランダム・ウォーカー―株式投資の不滅の真理』のMalkiel .信じていない学者は,ShillerのほかにCampbell, Lo, MacKinlayなど(3人とも一流過ぎて言葉にできない).ちなみに,LoとMacKinlayはA Non-Random Walk Down Wall Streetという本を出している.真っ向からMalkielにケンカうってるな.Malkielの本の原著タイトルは,A Random Walk Down Wall Street.
Shillerは参考文献リストで膨大な文献を挙げているんだが,その中にMalkielの本がないのがおかしかった.さらに,LoとMacKinlayの"A Non-Random Walk Down Wall Street"にも,Malkielの"A Random Walk Down Wall StreetMalkiel"が参考文献にあがっていない!
ShillerとMalkielってきっと犬猿の仲なんだろうな.
どちらの立場も,かなり説得的.Shillerの本を読めば,「効率的市場仮説なんてウソだな」という印象を持つし,Malkielの本を読めば,「効率的市場仮説は概ね正しいな」と思わされてしまう.どちらの立場も,思い込みや印象論だけでなく,ちゃんとした一流の経済学者がアカデミックな根拠を示した上での主張である.
どうして両方の立場が並存しているのだろう?実はこの問いが,僕がやっている研究とつながってくる.僕からすれば,今までの効率的市場仮説の研究のやりかたでは「両方の立場が並存して当たり前」という結論になる.
効率的市場仮説(Efficiency Market Hypothesis)の研究をしている僕としては,良いインスピレーションをもらえた.
Market Efficiencyの論文,今日Discussion Paper化した.そのうち
http://www.econ.keio.ac.jp/org/kes/ja/pub/pdis.htm
からDL出来るようになるはず.今週中にはDL出来るようになるかな?
というわけでこのDiscussion Paperをベースに6月のファイナンス学会での発表前に,セミナーでの発表とかもやったりしていろいろな方の反応を見て加筆修正していこう.フィードバックを反応させてある程度納得いったら英語化してどこかに投稿しよう.
こっちの研究がひと段落したんで,修士論文のことを真剣に考えよう.研究は楽しいな~.
今週はずっと論文に集中していた.
で,論文の完成度が90%にいたって喜んでいる.が,よく考えたら今週月曜の段階ですでに80%くらいできていた.プロジェクトって詰めの20%にかなり時間と労力がかかるという経験則を改めて感じた.
どうにかしてこの悪い経験則を打破したい.月曜には完了させるべし!週末がんばろー.
今週金曜日までにMarket Efficiencyの論文の脱稿を目指す.絶対に脱稿する.来週,再来週あたりにどこかのセミナーで発表でもする.絶対に発表する.今月中に英文に訳す.絶対に訳す.4月中にどこかの英文ジャーナルに投稿する.絶対に投稿する.
・・・やる気がみなぎっているときに一気に書き進めよう.
メモをいくつか.
・Advice for New Junior Faculty @Greg Mankiw's Blog
アメリカの大学でテニュア(終身雇用権)をとるためのアドバイスby Gregory Mankiw(まだ僕には関係ない話かもしれないが).こうしなさい,と色々とアドバイスを列挙しつつ最後に
Remember that you got into academics in part for the intellectual freedom it allows. So pursue your passions. Do not be too strategic. Be wary of advice from old fogies like me.
世の中は世知辛い.最初は「知的好奇心を満たすのが楽しくって仕方が無い」という理由で,情熱をもってacademic researcherという専門職業を目指していたのに,そのうち「テニュアをとること」が目標になっていったりするから気をつけよ,ということか.
ちなみに,
Avoid activities that will distract you from research. Whatever you do, do not start a blog. That will only establish your lack of seriousness as a scholar.
というアドバイスもあるんだが・・・.まぁ気にしない.
・http://www.economics.harvard.edu/faculty/mankiw/papers/My_Rules_of_Thumb.pdf
Mankiwが研究者として仕事をするときに重視している「自分ルール」について書いている.その中で,「共同研究」がなぜ大事か書いている.
Why are co-authors so important for the way I work? One reason is found in Adam Smith's famous story of the pin factory. Smith observed that the pin factory was so productive because it allowed workers to specialize. Research is no different--it is just another form of production. Doing research takes various skills: identifying questions, developing models, providing theorems, finding data, expositing results. Because few economists excel at all these tasks, collaborating authors can together do things that each author could not do as easily on his own. In manufacturing knowledge, as in manufacturing pins, specialization raises productivity. (The puzzle is why Adam Smith chose to ignore his own analysis and write The Wealth of Nations without the benefit of a co-author.)
The second reason I work with co-authors is that it makes my job less solitary. Research and writing can be a lonely activity. It is easy to spend endless hours with a pad and pencil or in front of a computer without human contact. Some people may like that kind of work, but not me. Arguing with my co-authors makes my day more fun.
The third reason I work with co-authors is the most important: a good co-author improves you forever. In the most successful collaborations, both co-authors learn from the experience. A co-author can help you expand your knowledge, improve your skills, and expose your biases. Even after the collaboration is over, you take these benefits with you to future projects. To a large extent, as I have grown older, my co-authors have become my mentors.
要するに,一つの脳で生産可能な量はたかが知れている,ということ.
もう出版されていたのか.考えてみれば,これまで日本語で計量経済学の辞書的なものは無かった.
yyasudaさんの,ECONO斬り!!というblogを通じて,これからの経済学を担う期待の若手13名を知った(13人のリストは,こちらにも紹介されている).
彼らの仕事の多くは
「シンプルな理論(あるいは仮説)を膨大なデータと統計的な手法を用いることによって実証的に検証する」
というスタイルです。
これからは応用/実証系の学者が本格的に経済学を引っ張って行くようになるのかもしれません。
計量経済学そのものの発展,コンピュータの発展,データが整備&公表されてきている,プログラムさえ書ければなんでも出来る,というここ最近の時代の流れを考えれば,当然の方向なのかもしれないが,計量経済学を専門にしようとしている僕としては,うれしいニュース.
あと,このblogの別のエントリーで,
あと、これは自戒をこめてですが、理論系の論文を書く際にもなるべく現実のデータをみましょう!自分の思い込みの「現実」を説明するための理論をいくら一生懸命考えたところで、その「事実」が実証的に間違っていたら誰も読んでくれません(笑)
と書いてあって,うれしくってたまらなかった.「理論なき計測」は絶対にダメだけど,「計測なき理論」はOK,みたいな変な風潮がうちの大学にあることを感じていたので,「計測なき理論」だってダメだよ,みたいなことを言ってくれているこの文章を読んでうれしかった.
でも実は僕は,「理論なき計測」も,「計測なき理論」も,どちらも良いと思っているんだけど.「理論なき計測」は,ひたすら観察事実を蓄積しまくるので理論家が理論を思いつくインプリケーションになるだろうと思う.一方,現実のデータを変に意識して,思考が縛られた状態で理論があまり量産されないよりは,「計測なき理論」で,自由な思考で理論を量産して,結果的にどれか一つくらい,実証に耐えられる理論が出現してくれればいいんじゃないかな,とか思っている.
国内にいる僕としては,こうやってアメリカのトップスクールでPhDをやってる人の日常をネットで無料でみられるというのは,非常にありがたい(本当にありがたい!).もっと目を世界に向けないと.経済学の世界で生きるには,日本にいると視野が狭くなってしまう.僕の場合,もう国内博士課程はもうほぼ考えていないので,留学or就職なんだけど,情報は多いほうがかえって意思決定が難しくなるな~.ほんと,留学どうしよー・・・.
留学についてここ数週間,かなり調べてみた.大体どんな感じか,把握した.一言で言うと,いばらの道.
アメリカのPhDを取得していなくっても優秀な研究者はもちろんいる.しかし一般に,経済学者を目指すなら,アメリカの大学院でPhD in Economics (経済学博士号)を最短でとることを考えるべきだと思う.なぜアメリカかと言えば,経済学研究の場合,圧倒的にアメリカが強いから.
PhD留学をするならば,ハードルがたくさんある.そこそこ高いハードルが大量にある,という感じだろうか.
当然まず英語.TOEFL250以上ない人は,お話にならない.といっても,英語力はいくらあっても足りない.250あっても,日本人に生まれた時点で,語学で苦しむことは間違いない.ここであきらめる人も多いだろう.簡単に言うが,現実にはそんなに簡単に250を超えられる人はいない.僕も250を超えたのは,学部4年だった.
次,推薦状3枚.なるべく自分のことをよく知っている人で,なるべく研究業績の高い人,というのが目安.教授はウソは書かないので,客観的に自分を評価してくる.つまり,自分が優秀であることが前提となる.さらに教授へのアピール・コミュニケーションが大事になる.
三つ目はGRE.アメリカ版センター試験みたいなもの.他の準備,勉強と併行して対策しないといけないので,大変.
四つ目はGPA.つまり,日本の大学や大学院での成績(特に数学の成績を重視するそうだ)のこと.Aを4点,Bを3点,Cを2点として,単位で加重平均したスコアで,3.5欲しいところらしい.僕は学部1,2年でサボったので,学部GPAは3.3しかない(それでも,3年になってから留学を意識し,3,4年でよく取り戻したと思う).大学院での成績は,春は全部Aだったし,たぶん秋もA以外はないと思う.だからたぶん,成績がボトルネックで留学が出来ないということはないと思う.当然,applyしてくる人はみんな成績優秀だろうから,僕の場合,どこかで学部GPA3.3という汚点を取り戻すアピールがないといけない.その意味で,いまやっている論文をなんとか今年中にPublishしたい.
五つ目はStatement of Purpose.エッセイ,研究計画書みたいなもの.
奨学金に応募しまくる,というのもけっこう心労.PhDをやる人は,ほとんど奨学金をとっているみたいだ.学費免除+生活費支給,というのも,優秀ならば夢ではない.せっかく合格してもカネがなくってあきらめることにはなりたくない.
以上と併行して,アメリカで落ちこぼれないように,渡米前になるべく学力を蓄積しないといけない.笑い事じゃなく,アメリカは競争社会でおちこぼれた人は,容赦なくクビをきる.その情け容赦の無さがアメリカの強さの源なのだろう.さらに,トップスクールを狙うならば,研究も一生懸命やって,研究者としての素質を見せることも考えるべきかもしれない.そういうことを考えたら,いま書いてる論文は,なんとか今年中にどこかにPublishしたい.
なんとか留学出来たとしよう.すると,初っ端にコースワーク(ミクロ,マクロ,計量)を死ぬほどやらされる.1年目の最後にテストがある.このテストは,翌年にもチャレンジ資格があるらしい.つまり,二回のチャレンジで突破しないといけないらしい.突破できないとクビになる.その際,かわいそうなので残念賞にMaster(修士号)をお土産にあげる.このページによれば,Boston Universityでは1回目のチャレンジでは,1/3がミクロとマクロの両方のテストに落っこちているようだ.最初の1年は,英語の問題もあるし,異国の地で勉強ばかりさせられ,かなりの精神的負担のようだ.
2,3年目は,フィールドワーク.指導教授を選択し,そのもとで研究助手,TAなどをやり,自分自身の研究を開始する.研究を開始すると簡単に言うが,研究とは「他の誰も到達していない新領域に,自分がはじめて足を踏み入れる行為」なので,かなりつらい.柔軟性が必要.頑固な学生はここでつまづく.
4,5年目は,研究を成就させる.論文を形にして,PhD論文を提出.アメリカの大学への就職を希望するなら,5年目は就職活動.
・・・このように,精神的コスト,金銭的コスト,時間的コスト,という三重コストを支払って,得られる対価はPhD,研究者としてやりたいことが出来る楽しい人生,ということになる.
さぁ,合理的判断は,どちらだ.留学か,就職か.ああ~・・・.どちらを選択するかで,今後の人生が大きく変わる.どっちを選んでも,見る視点によっては大差ないのかもしれないが.しかし,個人的には英語も出来るし経済学もよく学んできたし,自分の計量センスは突出していると思っているし,留学するならば,機は熟していると思う.学部卒ですぐPhDに突っ込んでもクビになったと思うし,もう少し年齢を重ねてからPhDに行ったら,柔軟性の無い学生になってやっぱり失敗する気がする.
というわけで,やるなら今しかないんだが,果たして最適な意思決定はどうなんだろう・・・ああ~・・・.
なんか,S&P500データの月中平均データがほしくって,
日次→月次(月中平均)
へデータ加工していたら,かなり時間がかかってしまった.日次データは,月によって21個データがあったり,22個だったりで,規則性がない.いや,太陽暦の法則とかまで勉強した上でアメリカの金融市場が過去50年間くらいでいつ何曜日に取引を行わなかったかとか,アメリカの祝日などの情報を勘案した上で考えれば,規則性はあるんだろうけど,さすがにそこまで考えるのはばかげている...と思いつつ,一瞬だとしてもその規則性を発見することに関心を持ってしまった自分が嫌だ.
そこまではやらなかったが,どうやってプログラムを書いたらいいか考えていたんだが,なかなか思いつかずに時間だけが過ぎ去っていった.
で,そもそも統計解析プログラミング環境Rだけで全部処理しようと思っていたのが間違いだった.Excelと秀丸とRの併せ技でやったら,すっげー簡単に出来た.Excelも捨てたもんじゃない.秀丸には足を向けて眠れない.
それで何がいいたいかというと,応用計量で生きていくには,こういうコンピューティングリテラシーを高めるのは避けて通れない,ということを実感した.計量の理論をいくら勉強したところで,それを使ってデータを実際に解析できないと意味がない.
現実に,データはそこらへんに都合よく転がってはいないので,データ整備で計量経済学者は苦心する.高いコンピューティングリテラシーは,この苦心を最小化してくれる.
テスト,レポートなどがすべて終わった.長かったような短かったような,修士1年が終わった.春休みの過ごし方についていま悩めるところがあるが,とりえあず,日本ファイナンス学会での研究報告の申し込みが今月末(あと一週間くらい!)までなので,締切まで論文と要旨を書くことに集中したいと思う.
卒論を出発点に,去年の夏くらいから本格的に進めてきた研究で,分析結果などはいろいろとあるので,それらを論文の形にまとめるだけだから,楽しい作業になりそう.
その後のことは・・・今はとりあえず,ファイナンス学会のことに集中しよう.
こんなペーパーを発見。
What Does Performance in Graduate School Predict? Graduate Economics Education and Student Outcomes
アメリカのトップ5(Harvard, Massachusetts Institute of Technology (MIT), Princeton, Stanford or the University of Chicago)の経済学の大学院生に関するデータを使って計量分析している。院生時代の成績や国籍・性別などが、PhDコース在籍中の成績やPhDコースを終えた後の研究者・学者としての就職に対してどのような影響を持っているのか、ということを分析している。
例えば、こんな結果が得られている。
・1年目の成績がよい学生は、PhDコースを完了する確率が高い(注:アメリカでは大学院に入ると最初にミクロ・マクロ・計量という経済学の主要三科目を死ぬほど勉強させられ、テストにパスできない学生はクビになる)。
・マクロ・ミクロの成績がよいと、よい就職をする傾向にある(注:例えばHarvard大学のAssistant Professorになれるのが良い就職)。
・マクロ・ミクロ・計量という主要三科目の間の成績は相関している(マクロが出来るやるはミクロもできるし計量もできる確率が高い、とかそういうこと)。
・アメリカ人でないほうが良い成績をとるが、だからといってよい就職をするわけではない(アメリカがPhDを与える態度ってダブルスタンダードってことなんですかね)。
・入試時点で提出するGRE scoreの中では、Analytical GRE scoreが一番、大学院に入ってからの成績をよく予想する(その学生の脳味噌の基本スペックが一番現れるということでしょう、きっと)。
大体こんな感じ。さ、データをいろいろと計量分析した結果このようにいろいろなことが分かったわけでございます。通常、個人的な経験や直近に人から聞いた印象に残っている情報、あるいは情報源の怪しい噂話をもとに「○○って○○らしいよ」のようなきわめて信頼度が低い情報が世の中に大量にあるが、計量経済学ってけっこうすごいでしょう?ここに列挙した分析結果は、実に科学的手続きによって得られた、かなり信頼度の高い情報であります。
いま、信頼度という言葉を使ったが、上に列挙した結果は、信頼度100%の分析結果ではない。しかし、「この結論は99%以上の確率で正しい」といったような、「紛れの度合い、不確実性の度合い、ウソを言っているかもしれないという自覚、信頼度」をちゃんとコントロール(いや、有意水準を通常なんの根拠もなく5%に設定し、リスク関数をベースに主観的に決定していないので、コントロールという言葉は間違っているかな?)、把握している。これが計量経済学であって、実に学問に真摯な態度だと思う。
さぁいろいろと分析した結果このペーパーのconclusionを見ると、一番最後の文章がこれでございます。
Our results suggest that there is not an easily recognizable star profile or single path to success for an economics graduate student.
さんざん分析して結論は、こんなにあたりまえなことかい?!・・・と。一般人には難解な言葉と数式を使って導かれる専門的な論文の結論というのは、往々にしてこのように結論で笑いをとる、ということを示した好例と思った。
あぁ、経済学のジョークを思い出してしまった・・・。
